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ペアダ(Peada、656年没)は、7世紀マーシア王ペンダの息子。ペンダがノーサンブリア王オズウィのとの戦いに敗れ655年11月に戦死した後、オズウィにより南マーシアの王とされたが、翌656年春の復活祭の頃、王妃の裏切りにより殺害された。
653年ごろ、父ペンダの命によりミドル・アングルスの王となる。8世紀の神学者・歴史家ベーダはペアダについて「非常に傑出した青年で、王の名と身分に実にふさわしかった[1]」と述べ、さらにペアダがノーサンブリア王オズウィの王女エアルフレッド(Alchflaed of Bernicia)に求婚したことを記している。これに対しオズウィ王は、ペアダの受洗とペアダとミドル・アングルスの民すべてがキリスト教へ改宗すること(ペアダは父ペンダと同じくこのときまで異教徒であった)を結婚の条件とした。ペアダの改宗についてはベーダ『英国民教会史』に次のように記述されている。
ペアダはリンディスファーン修道院のフィナン(Finan of Lindisfarne)によって洗礼を受け、その配下や民もこれに従った[1]。
655年11月15日、ウィンウェドの戦い(Battle of the Winwaed)でペンダ王がオズウィに破れて命を落とし、マーシアの実権はオズウィが握ることとなった。ベーダによれば、マーシアはトレント川を境に南北に分割され、北マーシアは7000ハイド(7千世帯分の土地)、南マーシアは5000ハイド(5千世帯分の土地)で、オズウィは南マーシアの地をペアダに与えたという[4][5]。
『アングロサクソン年代記』によると、ペアダはピーターバラに修道院(後のピーターバラ大聖堂)を建設した。
しかしペアダの治世は永くは続かなかった。『年代記』には「ペアダは、長い間統治するということがなかった。なぜなら、彼は、復活祭の季節に、彼自身の王妃に裏切られて殺されたからである」とあり[8][7]、ベーダ『英国民教会史』でも「ペアダは、自分の妃の裏切りにより、翌春の復活祭の祝日に悪辣にも殺された」[4][5]と、在位一年にも満たずにペアダが殺害されたことが記されている。
マーシアはウィンウェドの戦い以降オズウィが実質統治していたが、ベーダによるとペンダ王の死去から3年後、インメン、エアファ、エアドベルトらマーシア人の将軍がペンダの遺児ウルフヘレを擁して謀反を起こし、マーシアからノーサンブリア人勢力を駆逐して領土と自由を回復した[4]。
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