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ヘロデ朝(ヘブライ語: בית הורדוס、英語: Herodian Dynasty、紀元前37年 - 92年頃)は、パレスティナ・ユダヤ地区に成立された、エドム人系の国家である。ハスモン朝の断絶後に古代ローマ(共和政ローマおよびローマ帝国)よりユダヤ属州の統治を委任された。ここでイエス・キリストが生まれた。
ハスモン朝のヨハネ・ヒルカノス1世はその治世中にエドム地方を征服し、エドム人はユダヤ教へと改宗した。
やがて、エドム人は(元々からの)ユダヤ人と統合した。アレクサンドロス・ヤンナイオスが王の時代にはアンティパトロスがエドム地方の総督へ任命された。
彼の息子で同名のアンティパトロスはヒュルカノス2世の最も信頼の厚い腹心として活躍。ヒュルカノス2世とアリストブロス2世が争った際、オリエントへ進軍していたローマの将軍グナエウス・ポンペイウスの支援を得て、ヒュルカノスの勝利に結びつけた。その後もアンティパトロスはローマとの友好関係の維持に尽力した。
紀元前47年、オリエントへ進駐していたガイウス・ユリウス・カエサルよりアンティパトロスはユダヤ地区の統治代理人へ任命された。アンティパトロスは、2人の息子ファサエロスとヘロデをそれぞれエルサレムとガリラヤの総督へ任命した。
紀元前44年にカエサルが暗殺された後は、マケドニア属州を中心にローマ東方地区を勢力圏に置いたガイウス・カッシウス・ロンギヌスらのリベラトレス側に味方した。
紀元前43年にアンティパトロスが毒殺され、ファサエロスとヘロデが共同で後継者となった。紀元前42年のフィリッピの戦いではカッシウスらに味方したが、戦後はマルクス・アントニウスへ帰服した。
紀元前40年、ハスモン朝の末裔に当たるアンティゴノスがパルティアの支援を得てファサエロスとヘロデの支配地へ侵攻し、ファサエロスを殺害してハスモン朝が一時的に復活した。
ヘロデはアレクサンドリアからローマ市へと逃れ、ローマの元老院で支援を訴えた。元老院はヘロデに「ユダヤ人の王」の称号を与えた。ヘロデはアントニウスの支援を得て、エルサレムへと進軍。紀元前37年にアンティゴノスを打倒して、支配地の再奪取を果たした(ヘロデ朝の成立)。
大王と称されたヘロデは紀元前4年に亡くなるまで統治し、ヘロデの死後は3人の息子がヘロデの遺領を分割支配した。
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ヘロデ・アルケラオス(ヘロデとサマリア人のマルタケの息子)は、王国の中心地区となるユダヤ、エドムおよびサマリアを支配し6年まで統治したが、失政を重ねたためガリアへと追放され、アルケラオスの王国はローマの直轄領となった。
ヘロデ・フィリッポス(ヘロデとヘロデの5番目の妻クレオパトラの息子)は、バタネアやガウラニティスなどの北東部分を与えられて、34年に亡くなるまで王国を統治し、死後その領地はシリア属州に編入されるが、その地は歳入を別管理として数年後にアグリッパ1世に渡されることになる(『ユダヤ古代誌』XVIII巻4章6節)。
ヘロデ・アンティパス(ヘロデとマルタケの息子、アルケラオスの弟)は、ガリラヤとペレア(Perea)を与えられて統治したが、39年にカリグラ帝によってルグドゥヌムへと追放された[1]。このガリラヤ地方で30年ごろにキリスト教がおこった。
アグリッパ1世はヘロデ大王の孫に当たる[2]が、カリグラと親しかったこともあり、フィリッポス死後の37年にその統治した領土の総督に任命された。更に39年に追放されたアンティパスの支配地もカリグラより与えられ、41年にはアルケラオスが元々支配していた領土(ユダヤ、サマリア、エドム)も加えられた。結果として、アグリッパ1世はヘロデ大王が支配していた時期の支配地を回復させた。アグリッパ1世は44年に死去した。
このアグリッパ1世の弟で「ヘロデ」とだけ呼ばれている人物もおり、彼はクラウディウス帝の即位時にカルキス(Chalcis)を与えられた。彼はおよそ7年ほど統治した後、紀元48年ごろ死亡しその後領地は甥のアグリッパ2世に与えられた。[3]。
アグリッパ1世の息子であるアグリッパ2世は当初叔父からカルキス領地を引き継いだが、紀元53年にこれと交換する形で父の王国の北部分の支配を承継(南半分はまだローマの直轄領)した[4]。66年にユダヤ戦争が起こるなど多難であったが、92年頃に死去するまで統治した。アグリッパ2世の死後はローマの直轄領へと移行した。
このアグリッパ2世の従兄弟(カルキス領主のヘロデの息子)のアリストブロスはネロ帝の時代小アルメニアの王とされ[5]、ウェスパシアヌス帝の時代にカルキス[6]の王として同名の人物が記載されている。ただし、発掘された貨幣の年代などから、カルキスも紀元92年ごろにシリア属州に併合されてローマ直轄になったらしいことが分かっている[7]。 また、ヘロデ大王の息子のうちアレクサンドロス[8]の子孫で同名のアレクサンドロスは大アルメニアの王になったともされている[9]。
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ハスモン朝 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
アレクサンドロス | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
サロメ | マリアムネ1世 | ヘロデ大王 | クレオパトラ | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ベレニケ | アリストブロス4世 | マリアムネ2世 | マルタケ | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
アグリッパ1世 | フィリッポス(ヘロデ)[10] | ヘロデヤ | ヘロデ・アンティパス | ヘロデ・アルケラオス | ヘロデ・フィリッポス[10] | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
アグリッパ2世 | ベレニケ | サロメ | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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