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パンロン会議
1947年にビルマ連邦で開催された会議 / ウィキペディア フリーな encyclopedia
パンロン会議(パンロンかいぎ、英語: Panglong Conference、ビルマ語: ပင်လုံညီလာခံ)は、イギリスからの独立を目前とするビルマ連邦(現:ミャンマー)で開催された、いわゆる「辺境地域」の少数民族の処遇をめぐる会議である。シャン州パンロン(英語版)で、1946年と1947年の2回にわたり開催された。
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イギリス植民地時代のビルマでは、ビルマ人が居住する平野部である「管区ビルマ」と、少数民族が居住する山岳部である「辺境地帯」が分割されており、両地域の交流は制限されていた。このため、20世紀以降盛んになるナショナリズム運動も、辺境地域にはほとんど波及しなかった。しかし、第二次世界大戦後、ビルマの独立が現実的になってくると、新政府と少数民族の有力者の間での協議がおこなわれるようになった。
反ファシスト人民自由連盟(英語: Anti-Fascist People's Freedom League、AFPFL)のリーダーであり、ビルマ独立運動の指導者であるアウン・サンは、シャン人・カチン人・チン人(英語版)ら辺境地域の少数民族代表と協議をおこなった。1947年2月12日にはパンロン協定(英語: Panglong Agreement)が締結された。この協定により、少数民族の居住地域を含む全ビルマが連邦国家として独立すること、ビルマ政府は少数民族の自治権を認めることが成文化された。また、少数民族の居住する州については、独立後10年以降の連邦からの離脱権が認められた。
しかし、アウン・サンが同年7月に暗殺されたこともあり、1948年に独立したビルマ連邦の憲法には、パンロン協定の内容は完全には反映されなかった。独立から10年が経過した1960年、シャン人の指導者から憲法の連邦制度を改組しようとする提議がなされ、憲法改正に向けた協議がおこなわれたものの、この結論が出る前に、ビルマ連邦政府は軍部のクーデターにより打倒された。軍事政権は少数民族自治州の自治権・離脱権を停止したが、これを期に1970年代までに、主要な少数民族のほとんどが反政府勢力として蜂起した。
パンロン協定が調印された2月12日は、「連邦記念日(英語版)(英語: Union Day)」として、ミャンマーの祝日となっている[1][2]。