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ヌエストラ・セニョーラ・デ・アトーチャ
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ヌエストラ・セニョーラ・デ・アトーチャ(Nuestra Señora de Atocha)は、スペインの最も有名な沈没船。1622年、銅、銀、金、タバコ、宝石、宝飾品、インディゴを、スペインの港であったヌエバ・グラナダ副王領(現在のコロンビア、パナマ)のカルタヘナとポルトベロ及び、キューバのハバナからスペイン本国に輸送中にフロリダキーズ沖合で沈没した。
ヌエストラ・セニョーラ・デ・アトーチャ | |||
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インディアス総合古文書館にあるヌエストラ・セニョーラ・デ・ アトーチャの大砲 | |||
船歴 | |||
建造 | 1620年、ハバナで建造[1] | ||
喪失 | 1622年沈没 | ||
発見 | 1985年7月発見 | ||
要目 | |||
船種 | ガレオン船 | ||
船籍 | スペイン | ||
排水量 | 総トン数 | 550t | |
全長 | 110ft(33.53m) | ||
全幅 | 34ft(10.36m) | ||
吃水 | 14ft(4.26m) | ||
マスト | バウスプリット | 下方横帆1 | |
フォアマスト | 横帆2 | ||
メインマスト | 横帆2 | ||
ミズンマスト | ラテンセイル1 |
船体はマホガニー材で建造され[2]、マドリードのアトーチャ教区にちなんで命名された。
本土艦隊の船とハバナに集結できるまでにベラクルスで不運な混乱があった。パナマ市へとラバで到着する宝は非常に莫大で、記録によれば1622年の夏に2ヶ月を要して積み込まれた[3]。さらにハバナで一層遅れ、最終的には28隻の船団で1622年9月4日にスペインに向けて出発したが、これは予定より6週間遅れていた。
9月6日、強いハリケーンによって、キーウェストの西約35マイル(56キロ)離れたドライ・トートガスの近くのサンゴ礁で難破、船体は深刻な損害を受け、すぐに沈没。乗員・乗客265人中、3人の船員と2人の奴隷を除く全員が溺死した。このとき、1619年のガルシア・デ・ノダルの探検(英語版)でマゼラン海峡に代わるホーン岬航路を探検したバルトロメ・ガルシア・デ・ノダルが、死亡している。
生き残った船はハバナに戻り、難破を伝え、スペイン当局はアトーチャと近くで座礁したサンタ・マルガリータの引き揚げのために別の5隻を派遣した。アトーチャは水深約55フィート地点に沈んでおり、ダイバーが積み荷や武器を引き上げるのは困難であった。同年10月の2回目のハリケーンにより、残骸はより遠くへ散乱し、引き揚げはさらに困難にとなった。
スペイン人はインド人の奴隷の助けを借りて、数年間に及ぶサルベージ作業を実施し、マルガリータの船倉から登録された膨大な財宝のほぼ半分を引き揚げた。引き揚げの主要な方法としてガラス窓付きの大きな真鍮製の潜水鐘を用いた。奴隷が中に入り、財宝を入手し、甲板の水夫が引き揚げるのである。死亡率は高かったが、多少は効果的であった。死亡した奴隷はサルベージ船の船長によって事業費として計上された[4]。 1622年の艦隊の損失は、借入金を増額するなど三十年戦争によって財政的に厳しい状況にあり、資金調達の為にガレオン船の売却を余儀なくされていたスペインに対して、直接的影響を与えた。マルガリータからのサルベージ作業は10年間かけて成功したが、アトーチャに関しては発見すらできなかった。