ドレスデン包囲戦(ドレスデンほういせん、ドイツ語: Belagerung von Dresden)は、七年戦争中の1760年7月、プロイセン王フリードリヒ2世によるザクセン選帝侯領の首都ドレスデンの包囲。

概要 ドレスデン包囲戦, 交戦勢力 ...
ドレスデン包囲戦

ドレスデンの地図、1760年
戦争七年戦争
年月日1760年7月13日 - 7月22日
場所ザクセン選帝侯領ドレスデン
結果:ハプスブルクとザクセンの勝利
交戦勢力
神聖ローマ帝国の旗 ハプスブルク帝国
ザクセン選帝侯領の旗 ザクセン選帝侯領
プロイセン王国 プロイセン王国
指導者・指揮官
神聖ローマ帝国の旗 ヨハン・マクガイア プロイセン王国 フリードリヒ2世
戦力
14,000
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背景

七年戦争初期の1756年、フリードリヒ2世は先制攻撃してザクセンに侵攻、ドレスデンを占領した。その後、プロイセン軍とオーストリア軍は一進一退を繰り返し、オーストリアは1759年9月4日にドレスデンを奪い返した[1]。フリードリヒ2世はその奪回の機会を窺っていた。

経過

1760年7月13日、プロイセン軍はフランツ・モーリッツ・フォン・ラツィ英語版率いるオーストリア軍に後をつけられながらドレスデン周辺に到着した。プロイセン軍はエルベ川を渡河、ドレスデンの周辺を制圧して砲台を設置、市内に狙いを定めた[2]。フリードリヒ2世はこのとき、市内の居住地をわざと狙ったと言われた[3]。しかし、10日もしないうちにフリードリヒ2世はレオポルト・フォン・ダウン率いるオーストリア軍に打撃を与えるべく転進、ドレスデン包囲を諦めた。

その後

フリードリヒ2世は続いてシュレージエンに侵入、8月15日にリーグニッツの戦いを戦った。

ドレスデン市への無差別破壊がフリードリヒ2世の名声にさらなる傷をつけた。特に包囲を解いた後に選帝侯フリードリヒ・アウグスト2世が所有するピルナ英語版の庭園を破壊したことは批判を呼んだ[4]

ドレスデン包囲戦は1757年のプラハ包囲戦と1758年のオルミュッツ包囲戦に続いて、七年戦争中にフリードリヒ2世が諦めることを余儀なくされた3度目の包囲戦だった[5]

脚注

参考文献

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