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ドライジーネ(独: Draisine)とは、1817年、ドイツのカール・フォン・ドライス男爵が発明した人力二輪車である。二輪自転車の起源とされている。
木製の乗り物で、前輪の向きを変えることができるハンドルと、前後同じ直径の二つの車輪を備えていた。クランクやペダル、チェーンといった駆動装置はなく、足で直接地面を蹴って走るものであったが、[1]当時の書物には、ドライジーネが37kmを2時間30分で走ることができたという記録が示されている。これは時速15km/hに相当するかなりのスピードであった。[2]
車輪が誕生して5000年以上もの間、エジプト文明、ギリシャ文明、ローマ文明等、様々な時代、文明でも自転車が登場することはなかった。その間、車輪が横に2つ並んだ馬車やリアカーは発明されたが、人々はなかなか車輪を縦に2つ並べるという発想を思いつくことはなかったのである。欧州で最初の自動車、四輪の蒸気自動車が発明されても、まだ自転車は存在しなかった。
1815年、インドネシアのタンボラ山が大噴火した影響で翌年まで世界的な異常低温気候が続き(夏のない年)、作物が十分に育たずに馬の大量死が起きてしまった。ドライス男爵は噴火によって飢え死んだ馬の代わりを探していた。[3]そこでドライスは馬に似せた車輪付きの乗り物「馬のいらない四輪馬車」を考案。ドイツ・バーデンにおいて、「馬のいらない四輪馬車」の特許を申請した。しかし、これは画期的なものとは考えられず却下されてしまった。[4]1817年、ドライスは試行錯誤の末、二本足で地面を蹴って走る「ドライジーネ」を発明した。1817年6月12日、ドライス男爵はドライジーネを一般に公開。彼はマンハイムからシュヴェツィンゲンまで約15 kmの区間をわずか1時間で往復。そのスピードは駅馬車よりも速く、人々に大きな衝撃を与えた。[5]更に1カ月後の1817年7月、ドライスはドライジーネにまたがり、駅馬車とレースを行った。若き男爵の強靭な脚力もあり、駅馬車の4分の1の所要時間となる4時間で約50kmを走破。当時の書物には、駅馬車に完勝した記録が残っており、これが二輪車が初めて歴史に登場した記録であり、史上初の二輪車のレースの記録とされている。[6]1817年、バーデンとパリの登記所にて「ドライジーネ」の特許は受理され、1818年1月22日、ドライス男爵はバーデンにて10年にわたる商業権を認められた。[7]
ドライジーネの登場と同時代にフランスやソ連で同様の二輪車が発明されていたという起源の主張があり、日本でも1970年頃まではフランスの「セレリフェール」という二輪車が自転車の始祖であるという説が有力であった。しかし、それらは後の研究で反証され、存在の立証ができずに自転車の正史としては認められることはなかった。特にイタリアで主張されたレオナルド・ダ・ヴィンチの自転車のスケッチは大きな物議をかもすことになった。1500年代にレオナルド・ダ・ヴィンチが自転車のスケッチをしたという原稿が見つかったのだ。しかし、これは1960年代にダ・ビンチの手書き原稿を修復したイタリア人のある修道士が、もともと描かれていた二つの円を自転車の車輪に見立て、ペダルやチェーンなどを加筆することで、自転車に仕立てたものだとされている。このスケッチが描かれた紙は、16世紀に保存上の必要から二つ折りに糊付けされていたが、修道士が加筆する直前、歴史学者のペドレッチ氏が強い照明を使い透かした当初、描かれていたのは二つの円だけだった。[11]
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