トレビゾンド帝国
東ローマ帝国の亡命政権 / ウィキペディア フリーな encyclopedia
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トレビゾンド帝国(トレビゾンドていこく、英語: Empire of Trebizond / Trapezuntine Empire)とは、13世紀から15世紀にかけて存在した、東ローマ帝国(ビザンツ帝国)を引き継いだ3ヵ国の残存国家(英語版)のうちの1つであり、アナトリア半島の北東端(ポントス)とクリミア半島南部で構成されていた。コンスタンティノープル包囲戦 (1204年)の数週間前、コムネノス家のアレクシオス1世指揮によるテマとパフラゴニア(英語版)へのグルジア軍遠征後、この帝国はグルジア王国の女王タマルの助力を得て1204年に成立した[3]。アレクシオスは後に自らを皇帝と宣言し、トレビゾンド(現代のトルコ・トラブゾン)にて即位した。退位させられた皇帝アンドロニコス1世コムネノスの曾孫かつ最後の男系子孫であったアレクシオスとダヴィド・コムネノス(英語版)[4]は、東ローマ皇帝アレクシオス5世ドゥーカスに対し「ローマ皇帝」として自らの継承権を訴えた。後世の東ローマ皇帝や、ゲオルギオス・パキュメレス(英語版)、ニケフォロス・グレゴラス(英語版)といった作家、そしてヨハンネス・ラザロプロス(英語版)やヨハンネス・ベッサリオンなどのある程度のトレビゾンド人は、トレビゾンド皇帝(英語版)を「ラズ人の君侯」と見なした一方、彼ら「君侯」の領有地はラジカ王国(英語版)とも呼ばれた[3][5]。このように、ラスカリス家(英語版)や後のパレオロゴス朝と関連のある東ローマの作家らの観点では、トレビゾンドの君主は皇帝ではなかったのである[3]。
第4回十字軍がアレクシオス5世を打倒してラテン帝国を樹立した後、エピロス専制侯国とラスカリス家のニカイア帝国とともに、トレビゾンド帝国は皇位を主張するため東ローマの継承国3ヵ国のうちの1つとなった[6]。それに続く戦争は、ニカイア帝国と第二次ブルガリア帝国の抗争によりイピロスから勃興したテッサロニキ帝国を崩壊させ、ニカイアによる最終的なコンスタンティノープルの回復 (1261年)に至った。ニカイア帝国のコンスタンティノープル再占領にもかかわらず、トレビゾンド皇帝らは20年間にわたり「ローマ皇帝」を自称し、皇位に対する主張をし続けた。しかし再占領から21年後、トレビゾンド皇帝ヨハネス2世(英語版)はローマ皇帝位とコンスタンティノープルそのものに対する主張を公式に諦め、彼の皇位を「ローマ人の皇帝とアウトクラトール」から「全東方世界とイベリア人、ペラテイア(英語版)の皇帝とアウトクラトール」に改めた[注 1][8][9]。
東ローマの継承国のなかで、トレビゾンドの君主制は最も長く残存した。トレビゾンド帝国は、1ヵ月に及んだトレビゾンド包囲戦(英語版)と最後の皇帝ダヴィドとその一族が拘束された後、オスマン帝国のメフメト2世が1461年に征服するまで続いた[10]。