デルスィム

ウィキペディアから

デルスィム

デルスィムトルコ語: Dersim, オスマン語: درسم, ディムリ語: Dêsım / Dêsim 1847年以前は دسم[2], クルド語: Dêrsım / Dêrsim)は、トルコ東アナトリア地方に含まれる地域の地名。現在の行政区画としてはおおよそトゥンジェリ県に当たる。歴史的に人口の大半をアレヴィー派信徒のザザ人が占め、1937年にトルコ共和国初期の少数民族迫害事件として知られるデルスィム反乱ドイツ語版の舞台となった。

Thumb
デルスィム、英国ワン副領事L・モリニュー=スィール大尉が1911年に踏破した道を示した地図[1]

語源

通説では、デルスィムの名がペルシャ語起源で、門 (dar) と銀 (sim)の語から成っているとされる[3]。 また、デル・スィモンという名のアルメニア人指導者と関係があるとする説も存在する[4]


境界

地理的には、東でペリ川、北でムンズル山脈ドイツ語版、西でユーフラテス川、南でムラト川英語版によって囲まれており、その境界地域は、行政単位でいうと、北でエルズィンジャン県エルズィンジャン中央郡ケマフ郡英語版、北東で同県のテルジャン郡ドイツ語版、部分的にエラズー県パル郡ドイツ語版ビンギョル県キーゥ英語版、西でエルズィンジャン県のケマリイェ郡英語版、マラティヤ県のアラプギル郡英語版、南でエラズー県のケバン郡ドイツ語版に相当する。面積は約10,000平方キロメートル (トゥンジェリ県の面積は7,774平方キロメートル)であり[5][注釈 1] デルスィムの歴史的な境界がかつて東でムシュ県ヴァルト郡英語版、北でスィワス県イムランル郡英語版及びザラ郡ドイツ語版、西でマラティヤまで拡がる領域を包含していたという説も存在する[2]

東部デルスィムと西部デルスィム

歴史家たちはデルスィムを

とに分けて扱う[6]

デルスィムを扱った作品

  • ムラトハン・ムンガン英語版編『あるデルスィムの物語 クルド文学短編集』磯部加代子訳, さわらび舎, 2017年

脚注

Loading related searches...

Wikiwand - on

Seamless Wikipedia browsing. On steroids.