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古代ギリシアの哲学者(前412?-前323) ウィキペディアから
ディオゲネス(英: Diogenes、希:Διογένης Diogénēs、紀元前412年? - 紀元前323年)は、古代ギリシアの哲学者。アンティステネスの弟子で、ソクラテスの孫弟子に当たる。シノペ生れ。シノペのディオゲネスとも。
犬儒派(キュニコス派)の思想を体現して犬のような生活を送り、「犬のディオゲネス」と言われた。また、大樽を住処にしていた。翻訳によっては、「甕(かめ)」とも訳されるが、これは古代ギリシアの酒樽が木製のものではなく、甕であったためである。そのため、「樽のディオゲネス」ないし「甕のディオゲネス」とも言われた。
「ディオゲネスは銀行家(Τραπεζίτης:トラペジテス)のヒケシオス(Ικέσιος)の子でシノペの人。彼の父親は市(ポリス)の公金を扱う銀行家(έπιµελητής:監督者)であったが、“通貨(ノミスマ)を変造(パラハラクシス)した(παράχαράξαντος τό νόμισμα)”ので、ディオゲネスは追放された。」(二○・一)
ディオゲネスは、両替商ヒケシオスの子としてシノペに生まれた。逸話によって様々であるが、彼と父は通貨の鋳造ないしそれに関わる仕事を行っていたと考えられる。父の手伝いをしていたとも、ディオゲネスが通貨鋳造を行う職人たちのまとめ役(監督役:έπιµελητής)だったとも言われている。また父がシノペの経済の中枢とも言える貨幣一般を取り仕切る立場(監督役:έπιµελητής)だったとも言われる。シノペに居た頃のディオゲネスは、このような要職に就いていたことから経済的に豊かで地位もそれなりにあった立場の人間であったことがうかがえる。シノペはギリシア本国からは離れたアナトリア半島に位置する都市国家であったため、常に陸続きのペルシャの太守(サトラプ)たちとの摩擦に悩んでいる立地であった。
発掘される貨幣を見ると、明らかにシノペの信用を傷つけるような贋造貨幣が多く出土している。中には素人が鋳造した粗末なものもある。だが、シノペの貨幣の裏に、ヒケシオスとディオゲネスのイニシャル(“ΙΚΕΣΙΟ”、もしくは“ΔΙΟ”の文字)ではなくペルシャ傘下のカッパドキア太守(サトラプ)であるダタメス(ΔΑΤΑΜΑの文字)、あるいは息子のシシュナスの名前が刻まれたものが存在する。敵国からの偽造通貨工作をうけて、侵略の危険と常にとなりあわせであった。そして出土した貨幣には独特な傷がつけられていた。金メッキをした贋金であるかどうかを判断するために鏨痕を付ける方法があった。贋金であることが判明した場合、銀行にもってゆくとそれと同じ金額の貨幣と交換され、回収されたと言う。
おそらくは、その行為が「“通貨(ノミスマ)を変造(パラハラクシス)した(παράχαράξαντος τό νόμισμα)”」と言う行為だと推察できる。ディオゲネス(ないしヒケシオス)は通貨に「傷をつけ(パラハラクシス)」贋金かどうかの判断をするために「通貨を変造」した。しかし、これがおそらくは敵の知れることとなったために、贋造の罪といっしょくたに告訴されてしまった。ディオゲネスは国外へ逃れたが、父ヒケシオスは獄死したとされる。
国外追放後はアテナイに定住し哲学者となるが、最低でも55歳にはなっていた彼にとっては精神的にも肉体的にも辛い時期であったと思われる。国家の要職にありながら、市民権と地位、財産、家族といった一切を失った流浪の旅は厳しかった。裕福な市民ならば奴隷(ないし従者)をつれているものであったが、共に旅をするべく連れてゆく従者の数も多くなかったと思われる。
この流浪の旅の中で起こったエピソードが逸話として残っている。ディオゲネスに追従していた最後のひとりの従者(奴隷)であるマネスが突如姿を消してしまった。困窮と悲惨のドン底にあった主人を捨ててしまったのだ。周囲に居た人々が、ディオゲネスを哀れに想い捜索をしようとするが、ディオゲネスが皆を止めて言った。「おかしな話だよ、マネス(奴隷)のほうはディオゲネス(主人)なしでも生きてゆけるが、ディオゲネス(主人)のほうはマネス(奴隷)なしにはやっていけないとすれば」と答え、捜索を無用とした。奴隷にまで見捨てられ天涯孤独の人生において彼自身の哲学の原点の萌芽が見てとれる。アリストテレスの甥であり、二代目リュケイオン学頭であるテオフラストスが『メガラ誌』の中でこう述べている。「ネズミが寝床を求めることも無く、暗闇を恐れることも無く、美味美食と思われるものを欲しがりもせず走り廻っているのを見て」見出すに至ったとある。
その後アテナイに到着したディオゲネスは「異邦人(クセノス)」として、アテナイ人に遇される。しかし、それは最初だけでありディオゲネスは当初神殿などを間借りしてホームレスのような生活を送っていたとされる。「アテナイ人は自分のために住処をしつらえてくれている」という本人の言葉通りだったのだろう。
しかし、それでも50を超える年齢と施設の管理人たちの文句や、嫌がらせをするものたちもあったのか小屋を建ててもらおうと知人を頼ることにした。「ある人に手紙を出して、自分のために小屋をひとつ用意してくれるように」と手紙を出した。しかし、なかなか作ってくれないため「メトロオンにあった甕(ピトス)を住居として用いるようになった」。その甕はアテナイ人の若者たちによってある日壊されてしまう。だが、アテナイ人はその若者を鞭打ちにし罰した後に代わりの甕を用意してくれたと言う。「彼はアテナイ人たちによって愛されていた」とある。
こうしてアテナイに定住したディオゲネスは哲学者として活動を行う。そのスタイルはかつてのソクラテスが行ったように辻説法や対話といったものだった。彼の珍妙なキャラや行動に反して、決して不条理に屈しない姿から……次第に彼は有名人になっていた。彼もいくつか書物を著していたそうだが、散逸してしまっている。彼に関する本としては、後にキュニコス派のメニッポスが著した『ディオゲネスの売却』という本があった。アリストテレスの甥であり、リュケイオンの二代目学頭であるテオフラストスが持っていたとされる『ディオゲネス語録集』などがあった。これらは後のディオゲネス・ラエルティオスの著作「哲学者列伝」における「ディオゲネス伝」を作成する際の資料にもなっていたとされるが、現在は散逸してしまっている。その後、彼は奴隷商によって誘拐され奴隷として売りに出されてしまう。これにより、コリントス人のクセニアデスの奴隷として彼の家で生活することになる。ディオゲネスは家事全般や子供の教育などをメキメキとこなしたためにクセニアデスは「福の神が舞い込んだ!」と喜んだとされる。
最期に関しては、はっきりとした逸話は残っていない。ディオゲネスはアレクサンドロス大王と同じ頃死んだ。死因はタコを食べて当たったためとも、犬に足を噛みつかれたためとも、自分で息を止める修行をしたためとも言われている。
ディオゲネスは「徳」が人生の目的であり、欲望から解放されて自足すること、動じない心を持つことが重要だと考えた。そのため肉体的・精神的な鍛錬を重んじた。
ディオゲネスは神託を受け、貨幣改鋳者(贋金造り)としていきなり追放された。ディオゲネスに下された神託は「ポリティコン・ノミスマ(国の中で広く通用してるもの=諸制度・習慣=道徳・価値)を変えよ」といったものだった。彼はそれに従って、実際に通貨=価値を変えてみせた。ディオゲネスはそのため、国外に追放されたのである。
また、知識や教養を無用のものとし、音楽・天文学・論理学をさげすんだ。特にプラトンのイデア論に反対し、「私には『机そのもの』というのは見えない」と言った。プラトンは「それは君に見る目がないからだ」と言い返した。他に「プラトンの雄鶏」の逸話(後述)でも有名だが、後にプラトンはディオゲネスについて聞かれて「狂ったソクラテスだ」と評した。ディオゲネスのこれらの行動は貴族的な言動をしていたプラトンへの当て付けであったとも言われている。
運動の不可能(おそらくゼノンのパラドックス)を論じている哲学者の前で、歩き回ってその論のおかしいことを示した。
ポリスの理念を否定し、貴方は何人なのかと聞かれると「自分はコスモポリーテス(世界市民)だ」と言い、史上初めてコスモポリタニズムという語を作った。また女性や子供の共有を主張した。
彼には二十ほどの著作があったという説があるが、一方でまったく著作しなかったとの説もある。
ディオゲネスは、その思想よりも奇行や言動にまつわる逸話によって知られる。
他にも数え切れないほどの逸話があり、シニカルの語源となった彼の思想信条(「シニカル」は、キュニコス派を指す「cynic」を形容詞化したもの)に相応しく人を食ったものが多い。しかし、これらの多くはおそらく、日本の一休噺のように、ディオゲネスに仮託して創作された小話と考えられている。
英国の作家、アーサー・コナン・ドイルが発表したシャーロック・ホームズシリーズ中の短編「ギリシャ語通訳」では、シャーロック・ホームズの兄マイクロフト・ホームズは、他人との交流を嫌う人たちのためのロンドンで最も風変わりなクラブ、「ディオゲネス・クラブ」の創立者の一員であり、その会員という設定になっている。
ディオゲネスの言行を、現代の引きこもりやセルフ・ネグレクトの考察に使われることが始まり、「ディオゲネス症候群、ディオゲネス・シンドローム」という語句が用いられることがある。
ベネット・フォディによるコンピュータゲーム『Getting Over It with Bennett Foddy』では、下半身が釜にはまった男性が主人公であるが、その名をディオゲネスという[2]。
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