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チェルニャコヴォ文化
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チェルニャヒーウ文化(チェルニャコヴォぶんか)ないしチェルニャホフ文化(チェルニャホフぶんか、ウクライナ語:Черняхівська культура;英語:Chernyakhiv culture[1]ないしCherniyakhov culture)は2世紀から5世紀にかけて黒海の北西一帯(現在のウクライナ、モルドバ、ルーマニア、ポーランド南部)にかけて広がっていた文化。名称は、キエフ州チェルニャヒーウ村で発見された遺跡にちなむ。これまでに数千の遺跡が発掘されている。もとはサルマタイ人とスラヴ人の混合文化であったが、のちにダキア人、ゲタイ人、ゴート人などがやってきて定住した。
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濃いオレンジの線で囲まれた地方はチェルニャヒーウ文化が拡大した範囲。
薄いオレンジの矢印はゴート族のヴィェルバルク文化の進出方向。
黄色い線で囲まれた地域は南下してきたゴート族がその地方のチェルニャヒーウ文化と融合して成立したキエフ文化という独特の文化が発展した地方で、4世紀にフン族が襲来するまでゴート族の大半はここに落ち着いていた。