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ソロモン・ノーサップ
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ソロモン・ノーサップ(英: Solomon Northup[注釈 1]、1807年[2]ないし1808年[3]7月10日 - 1863年頃?)は、アメリカ合衆国の奴隷制度廃止運動家で、回想記 "Twelve Years a Slave" (en) の著者として広く知られている。ノーサップは、解放奴隷の父と自由有色人種(英語版)の母を持ち、ニューヨーク州で生まれたアフリカ系アメリカ人の自由黒人だった。彼は農家・ヴァイオリンのプロ奏者として働き、ニューヨーク州ヘブロン(英語版)に土地も所有していた。1841年、彼は音楽家としてツアーに誘われ、奴隷制度が合法だったワシントンD.C.へ向かったが、ノーサップはここで薬を飲ませられ、誘拐されて奴隷にされた。その後船でニューオーリンズに連れて行かれ、プランテーション経営者に買い取られた後、アボイルズ郡を中心として、ルイジアナ州のレッド川流域で12年間奴隷として働かされた。この後、同じプランテーションで働いていたカナダ人が、誘拐され奴隷にされた住民を援助すると州法で定めていたニューヨーク州に通報するのを手助けし、ノーサップは長い奴隷生活から解放された。家族や友人はニューヨーク州知事だったワシントン・ハント(英語版)に助けを求め、ノーサップは1853年1月3日に再び自由の身となった[1]。
ソロモン・ノーサップ Solomon Northup | |
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![]() 自伝より、彼を描いた版画 | |
生誕 |
1807年ないし1808年、7月10日![]() |
死没 | 1863年頃(55歳 - 57歳没) |
国籍 |
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著名な実績 | 自伝『12イヤーズ・ア・スレイヴ(英語版)』 |
署名 | |
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ワシントンD.C.の奴隷売人ジェームズ・H・バーチ(英: James H. Birch)は逮捕され裁判にかけられたが、コロンビア特別区の法律では、黒人(ノーサップ)が白人を相手取って裁判することを禁じていたため、バーチには無罪評決が下った。ノーサップを誘拐した人物は、後にニューヨーク州で居場所を突き止められ告発されたが、2年の審理の末に陪審員の忌避[注釈 2]により中断され、ワシントンD.C.での裁判が検討されたことで結局閉廷となる。ワシントンD.C.政府はこの件の調査を行わず、結局ノーサップを誘拐して奴隷にした人物は有罪とならなかった。
再び自由の身となってから、ノーサップは回想記の執筆を始め、『12イヤーズ・ア・スレイヴ(英語版)』Twelve Years a Slave とのタイトルで1853年に出版した。その後も奴隷制度廃止に向け、アメリカ合衆国北東部で自らの体験を語るスピーチを幾度も行った。歴史的記録からは1857年に姿を消しており(但し1863年のはじめに彼の生存を伝えた手紙が存在する)[4]、ノーサップが再び誘拐されたのではないかと考える人もいるが、奴隷として良い値段で売り払うには歳を取り過ぎていることから、歴史研究家の間ではこの説は否定的に考えられている[5]。彼の死については一切の記録が存在しない[6]。
ノーサップの回想記は、1984年にPBSが制作したテレビ映画 "Solomon Northup's Odyssey" (en) 、2013年の映画『それでも夜は明ける』として映像化されている。後者は第86回アカデミー賞(2014年)でアカデミー作品賞を獲得した。これをきっかけに、日本でも2014年6月4日に花泉社から、既に著作権の保護期間が切れていた『12イヤーズ・ア・スレイヴ』の原著が邦訳されて出版されるに至った[7]