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ヌルハチ曾祖父フマンには六子あり、その子孫からは六祖や寧古塔貝勒ニングタ・ベイレなどと呼ばれた。この内、ソオチャンガは「三祖」(三番目の大伯父) と呼ばれ、河洛ホロ噶善ガシャン地方不詳を根拠地とした。[3][4][注 1]
稻葉岩吉『清朝全史』によれば、遼東巡撫・侯汝諒の上奏文には叫場ギョチャンガとともに「草場」なる人物が「賊首」として挙がっているという。[1]孟森はこの「草場」をソオチャンガの漢音写としている。[注 2]それが正しければ、ソオチャンガは弟ギョチャンガとともに建州右衞都指揮使・王杲の明辺塞への入寇に関与していたとみることができる。しかし、その後改悛して入貢するようになったという。[1]
六弟・寶實ボオシの子アハナが董鄂ドンゴ部主・克轍巴顏ケチェ・バヤナから息子殺しの嫌疑をかけられた際、ソオチャンガはドンゴ部が提示した下手人引き渡しに対する謝礼金に目を眩ませ、自分の手下の者がやったと嘘を吐いた為、ニングタ・ベイレへの恨みを募らせたドンゴ部の襲撃を受けて、所領二つを奪われた。結局、子・吳泰ウタイがハダ国主ベイレワン・ハンの娘を娶っていた関係でハダの兵力を借り、ドンゴ部への報復を果したが、これを境にニングタ・ベイレの勢力は減退する。[3][4]
ギョチャンガ及びその子タクシ (ヌルハチ父) が明の官軍に殺され、ニカン・ワイランが擡頭するに及んで、ソオチャンガの子孫はニカン・ワイランに取り入り、各地の酋長をけしかけてヌルハチに度々危害を加えた。
ヌルハチが後金国のハンとして即位すると、タクシ以下の直系は黄帯子のアイシン・ギョロ氏 (即ち宗室)、フマンの傍系は紅帯子のギョロ氏として区別された。[注 3]
*満文表記 (転写) および仮名表記は『滿洲實錄』(満) に準拠した。丸括弧内の漢字表記は『太祖高皇帝實錄』[3]/『滿洲實錄』[4]の順で記し、両者の表記が同一である場合は統合した。また、その外の文献を典拠とする場合のみ脚註を附した。
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