セイイェド・アリー・モハンマド
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セイイェド・アリー・モハンマド(ペルシア語:سید علی محمد,アラビア語:سيد علي محمد,トルコ語:Seyyid Ali Muhammed、本名ミールザー・アリー・モハンマド、別名バーブ、1819年10月20日 - 1850年7月9日)は、イスラム教シーア派十二イマーム派の一派、シャイヒー派の宗教改革者、後に預言者であることを宣言し、「バーブ」(アラビア語で「門」の意)と名乗り「バーブ教」を開祖した。
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セイイェド・アリー・モハンマドは1844年5月23日に自分は十二イマーム派の約束されたマフディーの再来であると宣言し、イスラームの自由主義的改革を訴え支持を集め始めた。これに対して十二イマーム派の聖職者たちの多くが反発し、バーブを異端者、更には背教者と断罪した。
バーブ教徒は十二イマーム派聖職者とその扇動する群衆によって攻撃を受け、時には数千人規模の犠牲者を生む戦闘も起きた。1846年以降は断続的に拘留され、1850年7月9日に銃殺された。その後数ヶ月内に他の多くの直弟子が同じ運命をたどった。 生き延びたバーブの高弟の一人ミールザー・ホセイン・アリーは、1863年にバーブが登場を予言していた新預言者「バハオラ」であると宣言して「バハイ信教」を創始した。そのためバハイ信教でもバーブは崇敬されている。