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ジョヴァンナ・ガルツォーニ(Giovanna Garzoni、1600年 – 1670年)はイタリアの画家である。
ジョヴァンナ・ガルツォーニ Giovanna Garzoni | |
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著書の自画像 | |
生誕 |
1600年 イタリア,アスコリ・ピチェーノ |
死没 |
1670年 イタリア,ローマ |
イタリア中部の教皇領のアスコリ・ピチェーノに生まれた[1]。両親はヴェネツィア出身の画家の家系であるとされるが、異論もみられる[2]。母方の祖父や叔父は金細工師で、別にヴェネツィアの画家パルマ・イル・ジョーヴァネの工房で学んだ画家 ピエトロ・ガイア(Pietro Gaia)も叔父である[3]。研究者のなかでは、ガルツォーニは1615年頃から、この叔父の工房で見習いとして美術を学んだと推定されている[4]。ガルツォーニは兄弟の一人、マティオともに、各地を旅して活動した。
ローマに住んだ後、1816年にローマの薬学者のジョヴァンニ・ヴォルヴィーノ(Giovanni Vorvino)に依頼されて薬用植物の図を描いた[1]。1820年にヴェネツィアに移り、難病病院(Ospedale degli Incurabili)の教会に装飾画を描いた。ヴェネツィアには数年間滞在し、Giacomo Rogniにカリグラフィー(美書法)を学び、カリグラフィーに関する書籍を作成した。[3]
1630年にマティオとヴェネツィアからナポリに移り、1年ほどナポリの総督(スペイン副王)からの仕事をし、1831年にローマに戻った。すぐにサヴォイア公国の公妃、クリスティーヌ・ド・フランスに招かれて、トリノの王室のミニアチュール画家として働いた。[5] 1632年から1637年の間、トリノに滞在した後、ミラノの女性画家、フェーデ・ガリツィアや静物画家のヌヴォローネと交流し[5]、1640年にはパリに旅し、1642年まで滞在した。ローマに戻り、ローマとフィレンツェを行き来して、メディチ家のフェルディナンド2世・デ・メディチや大公妃ヴィットーリア・デッラ・ローヴェレからの注文の仕事もした。[5]
1650年からはローマに住み、ローマで死去した。
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