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ジューン・アリソン(June Allyson、1917年10月7日 - 2006年7月8日)は、アメリカ合衆国の女優・歌手。
ジューン・アリソン June Allyson | |||||||||
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1945年宣伝写真 | |||||||||
本名 | Eleanor Geisman | ||||||||
生年月日 | 1917年10月7日 | ||||||||
没年月日 | 2006年7月8日(88歳没) | ||||||||
出生地 | ニューヨーク州ニューヨーク市ブロンクス区 | ||||||||
国籍 | アメリカ合衆国 | ||||||||
職業 | 女優 | ||||||||
配偶者 |
ディック・パウエル(1945-1963) Alfred Glenn Maxwell(1963-1965、1966-1970) David Ashrow(1976-2006) | ||||||||
著名な家族 |
リチャード・キース(息子) パメラ・エレン(娘) | ||||||||
公式サイト | June Allyson's Official Web Site | ||||||||
主な作品 | |||||||||
『姉妹と水兵』 『若草物語』 『グレン・ミラー物語』 | |||||||||
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ニューヨーク市ブロンクス区生まれ。清掃員として働いていた父ロバートが母クララと別居し、やがて離婚。ジューンは貧困に近い生活を余儀なくされた。さらに、8歳のときに倒木の下敷きになり大怪我を負う不幸に見舞われる。リハビリには大変な努力を強いられたが、それが彼女の未来を開くことにもなった。治療のひとつとして始めた水泳では後にニューヨーク市の大会で優勝をさらい、同時に習っていたダンスでは遂にブロードウェイの舞台に立つこととなった。
オーディションに合格し、高校卒業後の1938年にミュージカル『Sing Out the News』のコーラス・ラインでデビューした。その後も短編映画やミュージカルへの出演などをこなしていたが、それらは医者を目指すジューンにとって学資を稼ぐためだった。ところが、1941年にベティ・ハットンの代役[1]で演じたミュージカル『Parama Hattie』での演技が評判となり、ジョージ・アボットが自分の製作ミュージカル『Best Foot Forward』に抜擢、さらに1943年に映画化されるに当たっても出演する運びとなり、ハリウッドデビューを果たすこととなった。
『ガール・クレイジー』など数々のミュージカル映画に出演し評価を高めていたジューンは、1944年の『姉妹と水兵』ヒロイン役でトップ女優の仲間入りをした。その後も『三銃士』のようなアクション映画やコメディーなどに出演した。1945年8月19日に13歳年上で2人の子持ちの俳優ディック・パウエルと結婚し周囲を驚かせた。
1949年、マーガレット・オブライエン、エリザベス・テイラーと共演したメトロ・ゴールドウィン・メイヤー社創立25周年記念作品『若草物語』で主演を務めた。1951年に妊娠し、内定していた『恋愛準決勝戦』を降板するトラブルもあったが、復帰後も数多くの名作映画への出演を果たした。また、夫が製作し彼女が司会を務めたテレビ番組『The Dupont Show with June Allyson』は好評を博した。
ジェームズ・ステュアートと共演した『甦る熱球』(1949)、『グレン・ミラー物語』(1954)、『戦略空軍命令』(1955)では3本とも彼の妻役を演じ、実際に2人は結婚していると勘違いしていた観客も多かったという。
ジューンは、『Too Young to Kiss』(1951)では、ゴールデングローブ賞ミュージカル・コメディ部門で主演女優賞を、『重役室』(1954)ではヴェネツィア国際映画祭で他のキャストとともに審査員特別賞を受賞している。また、映画産業における貢献を称えられ、ハリウッド・ウォーク・オブ・フェームに星を残している。
1955年には『マッコーネル物語』で共演したアラン・ラッドと不倫関係に陥っているが、2年ほどで関係は解消している。
銀幕の上のジューンは、ジンジャー・ロジャース、ジュディ・ガーランド、キャスリン・グレイソンといったそれまでのミュージカル女優とは異なり、親しみやすい容貌と若さあふれるダンス、特徴あるハスキーボイスの歌声で「隣の女の子」としてのキャラクターを確立した。ピーター・ローフォードと共演した学園物ミュージカル映画『グッド・ニュース』(1947年)が、この手の映画としても、また彼女の出演作品としても、いまだに語り継がれる代表作であることは、上に述べたようなジューンの魅力を裏書するものであるといえよう。彼女が尊敬していたジンジャー・ロジャースのジューン評「すべての男の子が恋人にしたいと思い、すべての女の子が友達になりたいと考える女の子」は、彼女の持つキャラクターをよく示すものである。
1963年夫ディック・パウエルが癌で死去した後、2人の連れ子の養育権をめぐって裁判沙汰となった時期があった。一時彼女との浮名を流したディレクターのデレク・サマーズが暴露した内容によると、裁判所はジューンの親権を認めたとのことだった。ジューンはすぐグレン・マクスウェルと再婚するが1年と持たず、1976年には歯科医から俳優に転じたデビッド・アシュロウと再々婚した。
ディック・パウエルは所有する会社などを含め多くの資産を残した。ジューンはときたま仕事をする程度で時を過ごしていたが、1990年代からは大人用おむつのコマーシャル出演などを通じ、1997年には失禁患者の治癒を目的とした財団「June Allyson Foundation」を設立した。
映画やテレビ番組にもたまに出演したが、いくつかのゴシップを除けばその後は静かに過ごしていた。1982年には自叙伝『June Allyson By June Allyson』を出版し、その率直な素顔に読者は共感したという。
2006年7月8日ジューンは、30年近く連れ添った夫と共に住むカリフォルニア州オーハイでその88年の生涯を閉じた。急性気管支炎による呼吸不全による。
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