Loading AI tools
ウィキペディアから
ジャン・トリスタン・ド・フランス(フランス語:Jean Tristan de France, 1250年4月8日 - 1270年8月3日)は、カペー朝のフランス王子。結婚によりヌヴェール伯(在位:1265年 - 1270年)、オセール伯およびトネール伯(在位:1268年 - 1270年)。また、1268年にアパナージュとしてヴァロワ伯領およびクレピー伯領を与えられた。
ジャンはフランス王ルイ9世とマルグリット・ド・プロヴァンスの第6子、4男としてエジプトのダミエッタで生まれた[1]。また、第7回十字軍中に生まれたルイ9世の3人の子女のうちの最初の子であった。ジャンの生まれたダミエッタは1249年に十字軍に征服された港町であった[2]。
年代記作者ジャン・ド・ジョアンヴィルによると、ジャンが生まれるとき老騎士が産婆の役割を果たしたという。ジャンの誕生の2日前、父ルイ9世はマムルークに捕らえられ、これが悲しい(triste)出来事であったため生まれてきた子供にトリスタン(Tristan)と名付けたという。ジャンは教会に改築されたダミエッタの大モスクで洗礼を受けた。1か月後、ダミエッタは放棄された。ジャンは幼年期を聖地ですごし、その地で弟ピエール(1251年)と妹ブランシュ(1253年)が生まれた。
父ルイ9世はジャンがドミニコ会に入会することを希望したが、ジャンはこれを拒否した。1266年、ジャンはヌヴェール女伯ヨランド2世(1247年 - 1280年)と結婚し[3]、ジャンはこれによりヌヴェール伯、オセール伯およびトネール伯となった。1268年、父ルイ9世はジャンをアパナージュとしてヴァロワ伯位およびクレピー伯位を与えた。
2年後、ジャンは父に従い第8回十字軍に参加し[2]、サルデーニャのカリャリを出発した後、7月にチュニスに到着した。しかしチュニスで兵士たちが赤痢にかかった。ジャンもまた赤痢にかかり死去し[4]、その死から3週間後、父ルイ9世も赤痢にかかり死去した[4]。父子の遺体はフランスに運ばれ、サン=ドニ大聖堂に埋葬された。
ジャンと妃ヨランドとの間に子供は生まれなかった。ヨランドは1272年にフランドル伯ロベール3世と再婚した[3]。ジャンが保持していたヴァロワ伯領は王のもとに戻された。
Seamless Wikipedia browsing. On steroids.
Every time you click a link to Wikipedia, Wiktionary or Wikiquote in your browser's search results, it will show the modern Wikiwand interface.
Wikiwand extension is a five stars, simple, with minimum permission required to keep your browsing private, safe and transparent.