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ジェルバ島の戦い
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ジェルバ島の戦いは、1560年5月、チュニジアのジェルバ島付近で行われた戦い。ピヤル・パシャ(英語版)率いるオスマン帝国軍が、スペイン・教皇領・マルタ・ナポリの各軍を主体とする大規模なキリスト教連合艦隊を打ち破った。連合艦隊は防衛拠点であるジェルバ島と、27隻のガレー船とその他小型艇を失った。この勝利は、地中海においてオスマンの影響力を強く印象づけたと考えられる。[4]
概要 ジェルバ島の戦い, 時 ...
ジェルバ島の戦い | |||||||
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![]() ピーリー・レイースによるジェルバ島の古地図 | |||||||
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衝突した勢力 | |||||||
キリスト教連合 ![]() |
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指揮官 | |||||||
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戦力 | |||||||
ガレー船54隻 その他船舶66隻 一説には: 艦船総数200[2] | ガレー船・ガリオット船86隻[3] | ||||||
被害者数 | |||||||
60隻が撃沈または拿捕[2] 18,000人を失う |
ガリオット船数隻を失う 戦死者約1,000人 |
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1573年頃まで、フェリペ2世支配下のスペインにおいて地中海方面戦略は最優先事項に位置づけられていた。 彼の指揮のもとにハプスブルク家のガレー艦隊は100隻規模にまで増強され、戦時下ではさらに補強が図られた。1560年、スペインはオスマン勢力に対抗するため、主要艦隊をトリポリ西岸付近のジェルバ島へ送り込んだ。オスマン軍はここで華々しい戦果を挙げ、10,000人を殺害し多数の船を撃沈した。しかしながら、この後に地中海で行われた主要な海戦において、彼らは勝ち続けることが出来なかった。スペインは戦後の2年間で艦隊を立て直し、1563年から1564年にかけて新たな防衛戦のために100隻の艦隊を用意した。オスマン帝国はこの戦で勝利しながら、ヴェネツィアに揺さぶりをかけることが出来なかったのである[1]。