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ジェイムズ・アイアデル(英: James Iredell、1751年10月5日 - 1799年10月20日)は、初代アメリカ合衆国連邦最高裁判所陪席判事の一人である。1790年にジョージ・ワシントンから指名されて後、その死の1799年まで務めた。息子のジェイムズ・アイアデル・ジュニアはノースカロライナ州知事になった。
アイアデルはイングランドのルイスで、ブリストルの商人の子供、5人兄弟の総領として生まれた。父が事業に失敗して健康も損ない、アイアデルは17歳の1767年に北アメリカ植民地への移民を強いられることになった。ノースカロライナのイーデントンの港で、親戚達が税関の副収税人すなわち会計監査役の職を斡旋してくれた。
アイアデルは税関で働きながらサミュエル・ジョンストン(後のノースカロライナ州知事)の下で法律を学び、法律実務を始めて、1771年には法廷弁護士として認められた。聖職者の孫でもあったアイアデルは生涯を通じて聖公会に帰依し、その著作に拠れば、組織化された宗教に単純に付くことを越えて精神性や形而上学に興味を持っていたことを示している。
1773年、アイアデルはジョンストンの娘ハンナと結婚し、4人の子供が生まれたが、3人だけが成人した。翌1774年、アイアデルは港の収税官になった。
アイアデルはイギリス政府に雇われている身分だったが、アメリカの独立と革命を強く支持した。1774年、随筆『大英帝国の住人に宛てて』を書き、イギリスの議会がアメリカを支配するという概念に反対する議論を並べた。この随筆によって、当時のノースカロライナで最も影響力有る政治的随筆家として23歳で頭角を現した。彼の論文『アメリカのパトリオットの原理』は、アメリカ独立宣言の主題と概念を予言し影響させることになった。
独立戦争が始まると、アイアデルはノースカロライナにおける裁判制度構築に貢献し、1778年に最高裁判所判事に選出された。その経歴では、1779年から1781年の検事総長を含め州内の政界と司法界で多くのポストを歴任した。1787年、州議会はアイアデルをコミッショナーに指名し、ノースカロライナ法典の集成と改定を任せた。その作品は1791年に『アイアデル改訂版』として出版された。
アイアデルはノースカロライナにおける連邦主義者の指導者であり、提案されていたアメリカ合衆国憲法を強く支持した。1788年、ヒルズバラで開催された憲法批准会議では、その採択を訴えたがうまくいかなかった(ノースカロライナ州は権利章典の追加が連邦議会によって認められた後に憲法を批准した)。
1790年2月10日、ジョージ・ワシントンがアイアデルを初代のアメリカ合衆国最高裁判所陪席判事の一人に指名し、2日後にアメリカ合衆国上院が確認した。アイアデルは初代判事の中では一番若い38歳だった。
最初の最高裁判所は担当する事件が少なかった。実際に最高裁判所が最初の事件を審理したのは1791年の「ウェスト対バーンズ事件」だった。この判決は全会一致のものだったが、アイアデルは議会がウェスト判決を執行する厳しい法律を変えるよう要求した。判事達は1年に2回集まって審問するだけであり、アイアデルが判事を務めた間のその意見については一握りの資料しか残っていない。それらの中で次の2件が最も重要なものである。
「チザム事件」では世論と政界の意見が他の判事達と対抗するアイアデルに一致した。チザム判決に対する大衆の激しい抗議と強い反応によって、1798年にアメリカ合衆国憲法修正第11条の採択により、判決は破棄された。
全会一致の判決だった「コルダー事件」では、アメリカ合衆国憲法の条項が刑事事件にのみ当てはまると判断し、「自然正当性の原則」は法の構成要素となると裁定した。アイアデルの意見は、明らかに憲法の文面に違背した州の行動のみが無効であると宣言されうるというものだった。「自然正当性の原則は固定された基準では規制されない。最も有能で最も純粋なものがこの主題では意見が一致しなかった。自然正当性の抽象的原則に一致しないと判事が考える法律を(平等に意見を言う権利のある)議会が成立させたというような事件では、全ての裁判所が適切に発言できる。」
「コルダー事件」におけるアイアデル判事の意見は5年後の「マーベリー対マディソン事件」(1803年)で試される違憲審査権の原則確立に貢献した。最高裁判所はその後の歴史を通じてアイアデルの考え方に従った。
フリーズ事件における連邦大陪審にアイアデルが関わったことは、憲法枠組みを作った者達の意図がアメリカ合衆国憲法修正第1条の範囲を事前抑制からの自由に限定する証拠として通常に引用されている。アイアデルは報道の自由に関するウィリアム・ブラックストン卿の狭い解釈を称賛し、憲法枠組みを作った者達はブラックストン卿の作品を大変知悉していたと述べて、「彼の説明が十分なもので無ければ、この修正条項はもっと具体的に記述されて如何なる誤りも避けるようにされていただろうと考える」と主張した。
1789年司法権法はアメリカ合衆国を13の地区に分け、それぞれの地区の13の主要都市の一つずつに連邦裁判所を置いた。また東部、中部および南部に3つの巡回裁判所、すなわち連邦控訴裁判所を置いた。最高裁判所判事は1年に2回「巡回裁判」すなわち様々な巡回をして審問を行うことを求められた。当時の旅は大変だったこともあるかもしれないが、アイアデルは健康を損ね、1799年10月20日に急死した。48歳だった。1788年に設立されたノースカロライナ州アイアデル郡は彼に因んで名付けられた[1]。
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