グアムの戦い (1944年)
1944年にアメリカ軍が行ったグアム島攻略戦 / ウィキペディア フリーな encyclopedia
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「グアムの戦い (1941年)」とは異なります。 |
1944年のグアムの戦い(グアムのたたかい、Battle of Guam)は、第二次世界大戦におけるマリアナ-パラオ戦役の戦いの一つ。サイパンの戦いに次ぐ死傷者を出した。
グアムの戦い | |
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アメリカ海兵隊に投降した日本兵 | |
戦争:太平洋戦争 | |
年月日:1944年7月21日 - 8月10日 | |
場所:マリアナ諸島グアム島 | |
結果:アメリカの勝利 | |
交戦勢力 | |
大日本帝国 | アメリカ合衆国 |
指導者・指揮官 | |
小畑英良 † 高品彪 † |
レイモンド・スプルーアンス ホーランド・スミス ロイ・ガイガー リッチモンド・K・ターナー |
戦力 | |
22,554人 | 2個師団、55,000人 |
損害 | |
死者18,500人 捕虜1,250人[1] 戦車28輌[2] |
アメリカ陸軍・アメリカ海兵隊 死者2,124人[3] 負傷者5,676人[1] 戦車42輌[4] アメリカ海軍 死者64人[5] 負傷者233人[6] グアム島民 死者700人[7] |
グアム島はマリアナ諸島中の島で、大戦開始前にはアメリカの統治下にあったが1941年12月10日に日本軍が占領した。
1943年2月にガダルカナルの戦いで日本軍を打ち破り、中部太平洋の日本勢力圏に圧力を強めるアメリカ軍を食い止める為、日本は1943年9月30日の最高戦争指導会議で裁可された「今後採ルヘキ戦争指導ノ大綱」に「確保スヘキ要域」として絶対国防圏を定めたが、アメリカ軍は、ギルバート・マーシャル諸島の戦いで中部太平洋の日本勢力下の各島を飛び石作戦で攻略し、じりじりと日本本土に迫ってきていた。その為、サイパン・グアム・テニアンのマリアナ諸島が絶対国防圏の最前線として注目されることとなり、日本軍は戦力増強を急いだ。
最重要拠点は戦前から日本の委任統治領で、多くの日本人が暮らし、中部太平洋を管轄していた第31軍司令部が置かれたサイパン島であったが、グアム島もそれに次ぐ重要拠点として戦力強化が図られた(詳細は#日本軍の戦略を参照)。
アメリカ軍にとってもマリアナ諸島は開発が進んでいた戦略爆撃機B-29の理想的な基地になり得ること、また将来的に台湾・沖縄を攻略し、中国大陸や日本本土に侵攻する為の前進基地にもなることなどで戦略的な価値が極めて高く重点目標とされていた。 太平洋方面のアメリカ軍総司令官の太平洋艦隊司令チェスター・ニミッツは、マリアナ諸島攻略の為に、高速空母艦隊を中心とした大艦隊と、海兵隊を主力とした水陸両用軍団の大部隊を空前の規模で遠征させてきた。
日本軍も再建した機動部隊第一機動艦隊や基地航空隊等の戦力で迎撃したが、マリアナ沖海戦の敗北により、アメリカ軍のマリアナ諸島への上陸を阻止することができずに、サイパンに続き、グアムとテニアンにもアメリカ軍が上陸し守備隊との間で激しい戦闘が繰り広げられる事となった。