クーセグ包囲戦
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クーセグ包囲戦(クーセグほういせん、ハンガリー語:Kőszeg ostroma、ドイツ語:Belagerung von Kőszeg)もしくはギュンス包囲戦(トルコ語: Güns Kuşatması)は、1532年8月5日から8月30日にかけて、ハプスブルク帝国・ハンガリー王国のクーゼグ(英語版)[Note 1] をオスマン帝国軍が攻囲した戦い。クロアチア人貴族ニコラ・ユリシチ(英語版)(ハンガリー語: Miklós JurisicsJurisics Miklós ユリシチュ・ミクローシュ)率いる僅か700人から800人の、大砲を持たず銃も少ないクロアチア人防衛隊が、スレイマン1世と大宰相パルガル・イブラヒム・パシャ率いる12万から20万の圧倒的なオスマン帝国軍から城塞を守り抜いた。これによりオスマン軍は2度目のウィーンへの侵攻を阻まれた[5]。
概要 ギュンス包囲戦 クーセグ包囲戦, 時 ...
ギュンス包囲戦 クーセグ包囲戦 | |||||||
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ハンガリー小戦争(英語版) オスマン・ハプスブルク戦争中 | |||||||
クーセグ包囲戦(Edward Schön画) | |||||||
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衝突した勢力 | |||||||
オスマン帝国 | |||||||
指揮官 | |||||||
ニコラ・ユリシチ(英語版) | パルガル・イブラヒム・パシャ | ||||||
戦力 | |||||||
700人–800人[1] | 120,000人–200,000人[2] | ||||||
被害者数 | |||||||
甚大[3] | 多数[4] |
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圧倒的な戦力差にもかかわらず、費した末に8月末の雨季に入ったため、スレイマン1世はクーセグ攻略を諦めた。そして当初の目標だったウィーン侵攻を取りやめ、撤退に転じた[3]。
他の城塞をいくつか奪取したことでオスマン帝国はハンガリーにおける優位を保った[6]が、オスマン軍撤退後にオーストリア大公フェルディナント1世(ハンガリー名フェルディナーンド1世)は荒廃した被占領地を奪い返した。 結果として1533年にコンスタンティノープル条約が結ばれ、両国の争いの焦点だったハンガリー王位をオスマン帝国側のヤーノシュ1世のものとする代わりに、フェルディナーンド1世のハンガリー内征服地における権利が認められた[7]。