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クロアチア軍政国境地帯(クロアチア語: Vojna krajinaまたはVojna granica)は、ハプスブルク帝国、オーストリア帝国及びオーストリア=ハンガリー帝国時代に現在の中央クロアチアに置かれた軍政国境地帯である。
首都 | (総司令部所在地) ヴァラジュディン(1553年 - 1783年) カルロヴァツ(1553年 - 1783年) ザグレブ(1553年 - 1881年) | ||||||||
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クロアチア軍政国境地帯は、オスマン帝国の北進を受けて16世紀後半にクロアチア王国領から設立された。設立当初は名目上クロアチア王国の一部であったが、1627年に軍政国境地帯の一部としてオーストリアの直轄になった。オスマン帝国の脅威に曝され続けるため、軍政国境地帯ではオーストリア大公が住民に自由な土地と信教の自由を約束していた。人口の大部分はクロアチア人、セルビア人、ヴラフ人によって占められていた[1][2][3][4][5]。上記の自由を認められた代わりに、この地域の住民には兵役の義務が課された。1630年、皇帝フェルディナント2世は、「ヴラーフの規約(statuta valachorum)」を制定し [6]、住民は16歳から66歳まで兵役に服することとなった。17世紀の終わりには、クロアチア軍政国境地帯の領土が拡大して東部の旧オスマン帝国領も含まれるようになり、軍政国境地帯の一部はクロアチア王国へと引き渡された。また、1783年にはザグレブに本部を置くクロアチア総司令部による画一の管理下に置かれることとなった[7]。クロアチア軍政国境地帯は1873年8月8日に非武装地帯となり、1881年7月15日、スラヴォニア軍政国境地帯と共にクロアチア=スラヴォニア王国に編入されて消滅した。
クロアチア軍政国境地帯にはリカ、コルドゥン、バノヴィナ地域が含まれ、西はアドリア海、南はヴェネツィア共和国、北西はハプスブルク家領クロアチア王国、北はハプスブルク家領ハンガリー王国、東はハプスブルク家領スラヴォニア王国とスラヴォニア軍政国境地帯、南東はオスマン帝国と接していた。
ウナ川とサヴァ川の合流点付近でスラヴォニア軍政国境地帯と接するまで広がったが、他の軍政国境地帯と同様、19世紀後半には政体として存在しなくなった。
クロアチア軍政国境地帯には3つの総司令部(クロアチア語: Generalat )が置かれ、8個連隊に分割されていた。
1802年の推定人口は以下の構成であった[8]。
1820年の推定人口は以下の通りであった[9]。
ハンガリーの統計学者エレク・フェニイェスによると、1840年、クロアチア軍政国境地帯には498,947人の住民がおり、民族構造は次のとおりであった[10]。
1857年からの近代的な国勢調査では、クロアチア軍政国境地帯の民衆の宗教を記録した[11]。以下は1857年のデータである。
クロアチア軍政国境地帯とスラヴォニア軍政国境地帯の労働人口の74.8%が農業に従事し、18.63%が非常設の兵士であり、3.11%が工業に従事していた[12]。
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