クルセーダー作戦
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クルセーダー作戦(クルセーダーさくせん、英: Operation Crusader)は、第二次世界大戦中の1941年11月18日から12月30日に北アフリカで行われた枢軸国軍に対するイギリス連邦諸国軍を含むイギリス軍(以下「イギリス軍」と記す。)の反攻作戦のことである。
概要 クルセーダー作戦, 交戦勢力 ...
クルセーダー作戦 | |
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炎上するドイツ軍のIV号戦車の脇を通過するイギリス軍のクルセーダー巡航戦車。 | |
戦争:北アフリカ戦線 | |
年月日:1941年11月18日-1941年12月30日 | |
場所:エジプト王国とイタリア王国領リビアとの国境付近からキレナイカ地方 | |
結果:イギリス軍の勝利 | |
交戦勢力 | |
イタリア王国 ドイツ国 |
イギリス イギリス領インド帝国 ニュージーランド 南アフリカ連邦 オーストラリア チェコスロバキア亡命政府 |
指導者・指揮官 | |
エットーレ・バスティコ ガストーネ・ガンバラ(英語版) エネア・ナヴァリーニ(英語版) エルヴィン・ロンメル ルートヴィッヒ・クリューヴェル |
クロード・オーキンレック アラン・ゴードン・カニンガム(英語版) ニール・リッチー ウィロビー・ノリー(英語版) |
戦力 | |
119,000(ドイツ兵65,000 イタリア兵54,000) 戦車414輌 航空機342機 |
118,000 戦車738輌 航空機616機 |
損害 | |
24,500人(ドイツ兵11,500、イタリア兵13,000) 戦車~300輌 航空機560機 |
18,600人 戦車278輌 航空機~300機 |
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1940年9月、イタリア軍は自国の植民地リビアから、東のエジプトへ侵攻したが、イギリス軍の12月9日に発動したコンパス作戦により逆に攻め込まれ、リビアのキレナイカ地方から撤退した。これに危機感を抱いたドイツのヒトラーは1941年2月、エルヴィン・ロンメルを司令官としてドイツアフリカ軍団を北アフリカへ派遣した。そこで、ロンメルは直ちに反撃を開始し、イギリス軍をエジプトまで追い込んだものの、トブルクを陥落させることができず、そのまま包囲する形勢となった。
これに対し、イギリス軍は2度の反攻作戦を実施したが、いずれも失敗に終わった。双方は戦力の充実を図り、それぞれ攻勢作戦を準備したが、11月18日にイギリス軍が先手をとってこの攻撃作戦(クルセーダー作戦)を開始した。これに対し、ロンメルは敵軍の側面を攻撃し、一時イギリス軍は退却した。ロンメルは東の国境方面へ装甲部隊を侵攻させ一気にイギリス軍の兵站線を切断し殲滅を図った。しかしそこで敵の抵抗に遭い、さらに補給の状況も悪化していたためいったんトブルクの西方ガザラまで撤退した。けれどもここでもイギリス軍の攻撃に耐え切れず、損害を抑えるようにしながらエル・アゲイラまで退却した。これにより、トブルクは枢軸国軍の包囲から解放され、キレナイカ地方はイギリス軍が支配することとなった。