クラック・デ・シュヴァリエ
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クラック・デ・シュヴァリエ(フランス語: Krak des Chevaliers〈Crac des Chevaliers〉; フランス語発音: [kʁak de ʃ(ə)valje]、カラート・アル=ホスン、アラビア語: [2]قلعة الحصن, ラテン文字転写: Qalaʿat al-Hosn[3]、Qalʿat al-Ḥuṣn〈al-Ḥiṣn〉[4])は[5]、シリアに築かれた十字軍時代[注 2]の代表的な城であり、当時の築城技術の粋を究めた城郭として評価されている[8][9]。1144年から1271年まで、聖ヨハネ騎士団の拠点として使用された。
クラック・デ・シュヴァリエ Krak des Chevaliers | |
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قلعة الحصن | |
シリア ホムス県タルカラハ郡(英語版) Al-Husn (Al-Hisn) | |
南西側から見たクラック・デ・シュヴァリエ | |
座標 | 北緯34度45分25秒 東経36度17分40秒 |
種類 | コンセントリック型(同心円型)城郭 |
施設情報 | |
管理者 | |
一般公開 | 可 |
現況 | 城跡(シリア内戦により一部損傷) |
歴史 | |
建設 |
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建設者 | |
建築資材 | 石灰岩 |
使用戦争 | |
主な出来事 | バイバルス攻略(1271年) シリア陸軍砲撃(2012年) シリア空軍空爆(2013年) ホスンの戦い(英語版)(2014年3月20日) |
ユネスコ世界遺産 | |
所属 | クラック・デ・シュヴァリエとカラット・サラーフ・アッ=ディーン(英: Crac des Chevaliers and Qal‘at Salah El-Din、仏: Crac des Chevaliers et Qal‘at Salah El-Din[注 1]) |
登録区分 | 文化遺産: (2), (4) |
参照 | 1229-001 |
登録 | 2006年(第30回委員会) |
危機遺産 | 2013年 (2013)- |
面積 | 2.38ヘクタール (23,800 m2) |
緩衝地帯 | 37.69ヘクタール (376,900 m2)[1] |
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クラック・デ・シュヴァリエ | |||
英名 | Crac des Chevaliers and Qal‘at Salah El-Din | ||
仏名 | Crac des Chevaliers et Qal‘at Salah El-Din | ||
登録区分 | 文化遺産 | ||
登録基準 | (2), (4) | ||
登録年 | 2006年 | ||
危機遺産 | 2013年 | ||
公式サイト | 世界遺産センター(英語) | ||
使用方法・表示 |
シリア・アラブ共和国中部の県都ホムスの西およそ30キロメートル(41km[10])にあり、シリアの沿岸山脈であるアンサーリーヤ山脈(英語版)(Al-Anṣariyyah[11]〈ヌサイリーヤ、An-Nusayriyah〉)の西端に位置する[12]。城はトリポリの東にあたる標高約650メートルの[13]火成岩の丘 (‘Jebel Kalakh’[10]) の上に石灰岩で築かれており[14]、アンティオキア(現、アンタキヤ[15])からベイルートへ向かう海沿いの道とともに[16]、内陸からブカイヤ (Buqeia[17]) の平野(ベッカー高原[17])を経て[14]地中海に出る唯一の通路であるホムスとトリポリの間の峠道(英: ‘Homs Gap’)を北端より押えている[18]。
フランス語名のクラック・デ・シュヴァリエは「騎士たちのクラック(クラク)」を意味し[3]、一般に「騎士の城」(英: ‘Castle of the Knights’[19])と称される[20]。アラビア語のカラート・アル=ホスン(カラアト・アル=ホスヌ[3])は「城塞都市」(英: ‘Castle of the Fortress’[4])を意味する[3]。フランス語名にある「クラック(クラク)」は、十字軍時代のアラビア語史書によるホスン・アル=アクラード(Ḥoṣn al-Ākrād[21]〈ヒスン・アル=アクラード[22]、Ḥiṣn al-Akrād[4]〉、「クルド人たちの城塞」の意)という名称の「アクラード」(クルド人〈Kurd〉の複数名詞[3][20])に由来すると考えられる[3]。
「アラビアのロレンス」として知られるT・E・ロレンスは、この城を世界で最も素晴しい城としている[3]。城は十字軍美術であるフレスコ画の断片などが保存されている数少ない場所となる。2006年に「カラット・サラーフ・アッディーン」(サラーフッディーン城〈サラディン城〉)とともに世界遺産に登録された[23]。しかし、シリア内戦による被害を受け、2013年にシリア国内の他の5つの世界遺産とともに危機遺産に登録された[24]。