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日本の大道芸人 (1930-) ウィキペディアから
ギリヤーク尼ヶ崎(ギリヤークあまがさき、1930年8月18日 - )は、日本の大道芸人、舞踊家。本名は尼ヶ崎 勝見(あまがさき かつみ)。芸名の由来は自身の風貌がロシアサハリンの先住民族であるギリヤーク[注釈 1]に似ていることから。 北海道函館市出身。現在の戸籍上の生年月日は1930年8月19日[1][注釈 2]。
北海道の和菓子屋の次男として生まれ、幼少時より門附芸人や角兵衛獅子などの大道芸に親しむ。また器械体操を行っており、1946年の国民体育大会では体操競技の北海道代表となった[3]。市立函館中学卒業。当初は映画俳優を志し、21歳で上京[4]して各映画会社のオーディションを受けるものの、「なまりが強い」としてすべて落選する。青年時代は邦正美に師事して創作舞踊を学び、全国合同公演に参加するなど舞踊家として活動した。しかしなかなか芽が出ず、警備員やビル清掃の仕事で糊口を凌ぐ[5]。
尼ヶ崎は30代になったころから自らの芸を極めるため大道芸に転向し、1968年に38歳で初めて街頭公演を行った。以後「鬼の踊り」(命名は洋画家の林武[6])と称される独特の舞踏が賞賛を受け、「最後の大道芸人」(実際に最後というわけではなく、前時代的なプロフェッショナル意識に対する賞賛の意)と呼ばれた。1975年以降はフランス、アメリカ、韓国、ロシア、中国など海外での公演も実施し、1981年から文化庁芸術祭にも参加する。
1995年1月17日に発生した阪神・淡路大震災に強い衝撃を受け、同年2月17日に尼ヶ崎は被災地である兵庫県神戸市長田区の焼け野原になった菅原市場で鎮魂の踊りを舞った。尼ヶ崎が「南無阿弥陀仏」と叫ぶとともに、被災者のお年寄り達が一斉に合掌した。その雰囲気に圧倒され、尼ヶ崎は初めて演技を間違った。そして同時に自らの踊りの本質が「祈り」であることを悟ったと尼ヶ崎は語っている。これ以後、尼ヶ崎の芸風も「鬼の踊り」から「祈りの踊り」へと変化したという。
2001年9月11日のアメリカ同時多発テロ事件に際しては、1年後の2002年9月11日にニューヨークで鎮魂の舞を舞った。2007年、赤報隊事件から20年、またJR福知山線脱線事故から2年を迎えるこの年に合わせ、春季公演で上記の震災・NYテロとともに鎮魂の踊りを舞った。2011年5月7日、尼ヶ崎は宮城県気仙沼市浜町にて津波による廃墟の中で東日本大震災追悼のための「祈りの踊り」を涙ながらに踊った。43年間で最高の踊りと自ら評したという。このとき尼ヶ崎の心臓にはペースメーカーが付けられ、椎間板ヘルニアは折れていると尼ヶ崎は告白した。
2016年にパーキンソン病および脊柱管狭窄症への罹患が判明し、それでも病を押して毎年恒例である秋の東京都新宿区での公演を成功させた[3]。
また、2017年夏には北海道函館市と札幌市でそれぞれ2年ぶりとなる公演を実現させた[7]。青空舞踊公演を始めてから50年目にあたる2018年夏は函館と札幌に加え、かねてから道内公演の口火を切って行われていた苫小牧公演を4年ぶりに復活させるなど精力的な活動を見せた[8][9]。2018年9月6日に発生した北海道胆振東部地震では、地震から半年後の2019年3月9日に被災地を訪れ、復興を願う公演開催を誓うなど、踊りへの強い意欲を示している[10]。
現在は東京都世田谷区に居住し、下記の季節毎の公演のほか、横浜市六角橋商店街ドッキリヤミ市場には2004年からほぼ毎年参加[11]。2024年5月の公演では、93歳の白髪のギリヤークは「じょんがら一代」「よされ節」「念仏じょんがら」の3演目を踊り切り、「念仏じょんがら」の最後には、「母さん、父さん、ばばちゃん、世津(妹)、高ちゃん(弟)、勝美は・・・まだ、この世の中に、まだ・・・」と途切れ途切れに呟いて絶句し、頭から水を被り、黒子2人に車椅子に抱え上げられるなど鬼気迫る様相であった。公演後、観客からは「ありがとう」の言葉が飛び交った。この様子は、TBSのドキュメンタリー番組で放映された[12]。
大道芸人として知られる尼ヶ崎はあくまで路上でのパフォーマンスに拘り、東京都が2002年に導入した大道芸免許制(ヘブンアーティスト)には「大道芸人の立場を向上させた」として一定の評価を下しつつも、「芸を審査する」というシステムに反発し申請はしていないという。
30代になって大道芸人に転向した後は、生計のすべてを観衆からの「おひねり」で賄っている。これで生活できなければ、芸が未熟で芸人の資格がないということだと語っている。しかし尼ヶ崎自身も「おひねり」で生活できるようになったのは60歳を過ぎてからであった。年金について聞かれた際に尼ヶ崎は、「年金ってなんですか?」と聞き返している。
尼ヶ崎の活動は海外にもおよんでおり、フランスのパリの大広場で踊ったこともある。この公演では演舞中にフランス警察が止めに入った。そこで踊ってはいけないのかを尼ヶ崎が抗議すると、踊りは構わないが赤フンを止めるように求められたそうである(「ノックは無用!」で語ったエピソード)。
自身の名と同じ読みである兵庫県尼崎市には縁浅からぬ思いがあるとのことで、毎年の春季公演には阪神電車尼崎駅北広場が演舞の場に選ばれている。上記の伊丹十三、大島渚に加え寺山修司や近藤正臣とも親交があり、彼らは特に尼ヶ崎の舞を評価していた著名人でもある。近藤が街頭20周年に寄贈した幟は、現在でも公演の度に掲げられている。また2018年7月15日には、街頭50周年を記念して、近藤から新たな幟が贈られた。[8]
2016年には「国内外の街頭で公演を行い、大道芸の感動を伝えている」功績により第70回北海道新聞文化賞特別賞を受賞した[13]。
実家は和菓子屋で、自身も和菓子好き[5]。
基本的に初代・高橋竹山と白川軍八郎の津軽三味線独奏テープに合わせて独特の舞を踊る。演目名と楽曲名が一致しないことが多々あるが、意図的なものであるかは不明である。尼ヶ崎の舞が盛り上がったところで、観客から「ギリヤーク!」「尼ヶ崎!」という掛け声が入る。声を入れるポイントは、長く尼ヶ崎の舞を見て理解している者でなくては難しく、この掛け声は観客としての一種のステータスであると言える。
幟には「公演時間十五分」と書かれているが、実際には30分近くに及ぶこともある[14]。
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