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エスナ・ボイド(Esna Boyd, 1899年9月21日 - 1966年)は、オーストラリア・メルボルン出身の女子テニス選手。全豪選手権(現在の全豪オープンテニス)で女子競技部門の黎明期に活躍した選手で、第1回大会の1922年から1926年まで5年連続の女子シングルス準優勝で止まっていたが、1927年に6度目の挑戦で女子シングルス優勝者になった人である。女子ダブルスでは4勝、混合ダブルスでは3勝を挙げ、この両部門では第1回大会の優勝者となった。
現在は「全豪オープン」として知られるテニス大会は、1905年に第1回大会が始まったが、最初期の全豪選手権は男子シングルス・男子ダブルスの2部門のみであった。女子シングルス・女子ダブルス・混合ダブルスの3部門は、それから17年後の1922年に第1回の競技が行われた。エスナ・ボイドは1922年に新設された女子競技部門の第1回大会で、3部門すべてに決勝進出を果たし、女子ダブルス・混合ダブルスの2部門で第1回大会の優勝者となったが、女子シングルス決勝ではマーガレット・モールズワース(1894年 - 1985年)に 3-6, 10-8 で敗れて準優勝になった。それから1926年まで、ボイドは5年連続で女子シングルス準優勝の壁にぶつかる。彼女が決勝で敗れた相手は、1923年は前年と同じモールズワースで、1924年はシルビア・ランス、1925年と1926年はダフネ・アクハーストであった。ようやく1927年の第6回大会で、ボイドはシルビア・ランス・ハーパーを 5-7, 6-1, 6-2 の逆転で破り、宿願のシングルス初優勝を達成した。ボイドは1928年まで7年連続で決勝に進んだが、最後の決勝戦となった1928年はアクハーストに 5-7, 2-6 で敗れた。
ボイドは女子ダブルスでは通算4勝を挙げたが、パートナーはその都度異なった選手たちと組んでいた。第1回大会で組んだ選手はマージョリー・マウンテン(Marjorie Mountain)で、1923年はシルビア・ランス、1926年はメリル・オハラウッド、1928年はダフネ・アクハーストと組んだ。混合ダブルスでは1922年・1926年・1927年に3勝を挙げたが、パートナーはすべてジョン・ホークスであった。ボイドは後にアングス・ロバートソン(Angus Robertson)と結婚し、選手引退後はスコットランドに住んだ。
エスナ・ボイドの生没年月日については、長い間はっきりしたことが分からず「1901年生まれ、1962年没」(どちらも日付は不明)と考えられてきた。ところが、2008年に改訂されたバド・コリンズ編「テニス百科事典」の最新版により、ボイドの生涯について「1899年9月21日メルボルン生まれ、1966年にスコットランドで死去」と示された。生年月日が判明して、従来の「1901年」よりも2年早く示され、死去にいたっては従来の説より4年遅く提示されたことになる。
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