インドネシアによる東ティモール侵攻
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インドネシアによる東ティモール侵攻(インドネシアによるひがしティモールしんこう)は、1975年12月7日にインドネシア軍によって開始された侵攻である。
概要 インドネシアによる東ティモール侵攻 Operasi Seroja, 時 ...
インドネシアによる東ティモール侵攻 Operasi Seroja | |||||||
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衝突した勢力 | |||||||
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指揮官 | |||||||
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戦力 | |||||||
35,000人 | 20,000人[4] | ||||||
被害者数 | |||||||
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東ティモールは長らくポルトガル領であったが、1974年4月にポルトガルで生じた政変を機に独立の機運が高まり、1975年11月28日、東ティモール独立革命戦線が東ティモール民主共和国の独立を宣言。これに対しインドネシアが併合を目論んで行ったのがこの侵攻であるが、口実としては脱植民地化および反共主義を挙げていた。
侵攻後、インドネシア軍は速やかに東ティモールの主要都市を制圧し東ティモール暫定政府(英語版)を設置。1976年7月17日にはインドネシアの「第27番目の州」として正式に併合した。この併合を承認したのはオーストラリアのみで、国際的には無視された。国際連合は批判的な決議をおこなったものの具体的な動きはなく、結果24年間にわたって占領が続いた。1998年のスハルト大統領の失脚を契機として再び東ティモール独立に向けての動きがみられ、1999年の住民投票(英語版)を経て、2002年5月20日、東ティモール民主共和国が正式に独立した。
東ティモール受容真実和解委員会(英語版)の最終報告書では、1974年から1999年の占領期間に東ティモールにおける紛争関連で死亡した人数は、戦闘行為による死亡が約18,600人、病気や飢餓による死亡が約84,200人で、少なくとも102,000人、最大183,000人と推定している[6]。