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アレクサンドル・ドラギーチ
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アレクサンドル・ドラギーチ(ルーマニア語: Alexandru Drăghici, (ルーマニア語発音: [alekˈsandru drəˈɡit͡ʃʲ]; 1913年9月27日 – 1993年12月12日) は、ルーマニアの共産政治家。ルーマニア内務大臣、ルーマニア国家安全保障大臣、ルーマニア閣僚評議会副議長、ルーマニア大国民議会議長、ルーマニア大国民議会常任幹部会委員を歴任した。彼は反共産党員や反共主義の地下抵抗運動、ルーマニアの一般国民に対する弾圧が活発であった時期に、秘密警察・セクリターテを統轄していた。
アレクサンドル・ドラギーチ | |
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Alexandru Drăghici | |
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ルーマニア内務大臣 | |
任期 1952年5月28日 (1952-05-28) – 1952年9月20日 (1952-9-20) | |
閣僚評議会議長 | ペトル・グローザ ゲオルゲ・ゲオルギウ=デジ |
前任者 | テオハリ・ジョルジェスク |
後任者 | パーヴェル・シュテファン |
任期 1957年3月19日 (1957-03-19) – 1965年7月27日 (1965-7-27) | |
前任者 | パーヴェル・シュテファン |
後任者 | コルネル・オネスク |
ルーマニア国家安全保障大臣 | |
任期 1952年9月28日 (1952-09-28) – 1957年3月19日 (1957-3-19) | |
閣僚評議会議長 | キヴ・ストイカ イオン・ゲオルゲ・マオレル |
前任者 | パーヴェル・シュテファン |
後任者 | コルネル・オネスク |
閣僚評議会副議長 | |
任期 1961年3月18日 (1961-03-18) – 1965年7月27日 (1965-7-27) | |
閣僚評議会議長 | イオン・ゲオルゲ・マオレル |
任期 1967年12月9日 (1967-12-09) – 1968年4月26日 (1968-4-26) | |
ルーマニア大国民議会議長 | |
任期 1949年12月28日 (1949-12-28) – 1950年1月26日 (1950-1-26) | |
前任者 | ドミートル・ペトレスク |
後任者 | ドミートル・ペトレスク |
ルーマニア大国民議会常任幹部会委員 | |
任期 1965年 (1965) – 1968年 (1968) | |
ルーマニア共産党中央委員会委員 | |
任期 1948年2月28日 (1948-02-28) – 1968年4月26日 (1968-4-26) | |
ルーマニア共産党中央委員会政治局委員 | |
任期 1955年12月28日 (1955-12-28) – 1965年7月23日 (1965-7-23) | |
ルーマニア共産党中央委員会書記 | |
任期 1965年 (1965) – 1967年 (1967) | |
個人情報 | |
生誕 | (1913-09-27) 1913年9月27日 ルーマニア王国・ブザウ県ティーサウ |
死没 | 1993年12月12日(1993-12-12)(80歳没) ハンガリー・ブダペスト |
国籍 | ルーマニア |
政党 | ルーマニア共産党 |
配偶者 | ツィコ・マルタ |
宗教 | 無神論 |
署名 | ![]() |
工場労働者であったドラギーチは、20歳ごろから共産主義の地下活動に参加した。違法な政治活動を理由に逮捕され、第二次世界大戦のころには獄中生活を送っていた。戦後のルーマニアにおいて共産体制が正式に確立される直前に抑圧組織に参加した。ゲオルゲ・ゲオルギウ=デジと知り合い、親しくなったドラギーチは、ルーマニア共産党内で急速に昇進していった。
ドラギーチは、マルクス・レーニン主義に抵抗しようとした特定の集団に対する様々な抑圧運動で悪名高い人物であった。彼は早くから青年運動や教職員の粛清に着手し、アナ・パウケルらモスクワ派の同志の糾弾に加わり、その後、ルーマニア国内に在住するハンガリー人の集団にも注意を向けた。ルクレチウ・パトラシュカーヌの見せしめ裁判や、ローマ・カトリック教会やルーマニア正教会といった宗教団体への締め付け・弾圧にも関わった。一方で、1959年7月28日のルーマニア国立銀行襲撃事件の主犯格、「イオアニッド団」の取り締まりも指揮した。
ゲオルギウ=デジとドラギーチはともに脱スターリン化に反対したが、彼らは民族共産主義と社会主義的愛国心を説き、これはルーマニアのソ連からの脱却の兆しとなった。ゲオルギウ=デジの死後もドラギーチは重要な任務を担っていたが、ゲオルギウ=デジの後継者で新たな指導者となったニコラエ・チャウシェスクと激しく対立した。チャウシェスクは、党内における自身の影響力を利用し、公に知られる形となったセクリターテの悪行について、すべてドラギーチに責任がある、とし、彼を失脚へと追い込んだ。ドラギーチは裁判にかけられることなく、1968年から1989年まで、ブカレストで名前を伏せて暮らしていた。
チェウシェスクによる共産政権の滅亡後、ルーマニア新政府はドラギーチの身柄引き渡しを要求したが、ドラギーチは家族とともにハンガリーにて晩年を過ごした。彼の死の直前に開かれた裁判においては、本人が不在のまま、殺人教唆の罪で有罪判決を受けた。