アルベルト・ボルマンAlbert Bormann, 1902年9月2日 - 1989年4月8日)は、ドイツ政治家アドルフ・ヒトラーの個人秘書。最終階級はNSKK中将。党官房長を務めたマルティン・ボルマンの実弟。

概要 生年月日, 出生地 ...
アルベルト・ボルマン
Albert Bormann
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ゲーリング(左端)の後方で歩くアルベルト(1943年8月10日)
生年月日 1902年9月2日
出生地 ドイツの旗 ドイツ帝国
プロイセンの旗 プロイセン王国 ザクセン州ドイツ語版 ヴェーゲレーベンドイツ語版
没年月日 (1989-04-08) 1989年4月8日(86歳没)
死没地 西ドイツの旗 西ドイツ
バイエルン州の旗 バイエルン州 ミュンヘン
前職 銀行員
所属政党 国家社会主義ドイツ労働者党
称号 黄金党員名誉章
全国指導部
総本局長1940-45年
親族 マルティン・ボルマン(兄)

総統個人秘書兼副官
在任期間 1938年 - 1945年

総統官房
第Ⅰ本局長
在任期間 1934年 - 1940年
党首 アドルフ・ヒトラー

選挙区 西ベルリン
当選回数 1回
在任期間 1938年 - 1945年
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来歴

プロイセン王国ザクセン州ドイツ語版(現在のザクセン=アンハルト州)のハルバーシュタット近郊のヴェーゲレーベンドイツ語版で、郵便局員テオドール・ボルマンの次男として生まれる。姉兄には、テオドールの前妻ルイーズが生んだイルゼとヴァルター、母アントニエが生んだマルティンがいる。

1922年に銀行に就職する。1927年には国家社会主義ドイツ労働者党に入党し、突撃隊に参加する。1929年から1931年まで、マルティンが管区指導者を務めていたテューリンゲンで、ヒトラーユーゲントの指導者を務める。1931年4月からは党救済基金部門ドイツ語版に配属され、10月には総統官房に異動し、ヒトラーと党関連団体との取り次ぎを担当した。アルベルトは目立つことを避け、自身の行動は常に公益のためであり、地位を私的濫用していないと信じていたという[1]。また、この頃にフィリップ・ボウラーと友好を結んだ[1][2]

1934年からはヒトラーの秘書として仕え突撃隊大佐に昇進し、間もなく総統官房において主要幹部の一人としてヒトラーの事務を処理するようになる[1]1938年ドイツ国会選挙では西ベルリン選挙区から選出されて国会議員になった。

アルベルトはヒトラーから有能で信頼できる人物と評価され、人事にも影響を及ぼすことがあったため、ヒトラーの側近の座を巡りマルティンとは対立関係にあった[2]。アルベルトの妻はドイツ系ハンガリー人であったが、マルティンはドイツ系ではないという噂を流した。また、会議で同席することがあっても、互いに会話を交わすことはなかった。

1945年4月21日、連合軍ベルリンに迫ると、ヒトラーの命令によりベルリンから脱出し、オーバーザルツベルクベルクホーフに向かいヒトラーの個人的な書類を処分する。ドイツ降伏後は農場で農業労働者として潜伏していたが、1949年4月に出頭して逮捕された。非ナチ化裁判で6か月の重労働刑の判決を受け、釈放後はミュンヘンに住んだ。

1989年4月8日にミュンヘンで死去。終生マルティンのことを嫌い続け、戦後にナチス時代についての取材を受けた際にも、マルティンのことを話題にすることを避けていた[1]

栄典

脚注

関連項目

参考文献

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