アザーズの戦い (1030年)
アラブ・ビザンツ戦争 / ウィキペディア フリーな encyclopedia
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別の時期に起こった同名の戦闘については「アザーズの戦い」をご覧ください。 |
1030年8月に起こったアザーズの戦い(アザーズのたたかい、英: Battle of Azaz)は、シリアの都市のアザーズ(英語版)近郊において、ビザンツ皇帝ロマノス3世アルギュロスが率いるビザンツ帝国軍とアレッポのアミールのシブル・アッ=ダウラ・ナスル(英語版)が率いるミルダース朝(英語版)軍の間で行われた戦闘である。
アザーズの戦い (1030年) | |||||||
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アラブ・ビザンツ戦争中 | |||||||
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衝突した勢力 | |||||||
ビザンツ帝国 | ミルダース朝(英語版) | ||||||
指揮官 | |||||||
ロマノス3世アルギュロス コンスタンティノス・ダラッセノス(英語版) レオン・コイロスファクテス | シブル・アッ=ダウラ・ナスル(英語版) | ||||||
戦力 | |||||||
約20,000人 (現代の推計) |
700人から2,000人 (中世の史料) | ||||||
アザーズの位置(青)と11世紀当時の主なシリア周辺の都市の地図 |
シリア北部に位置するアレッポは長期にわたってビザンツ帝国(東ローマ帝国)とアラブ人勢力の間における紛争の火種となっており、ビザンツ帝国はアンティオキアを占領した969年以降都市の保護権を主張していた。1029年にビザンツ軍がアレッポを支配するミルダース朝の軍隊に敗北を喫すると、軍事経験のない文官出身のロマノス3世が自らアレッポに対する軍事行動に乗り出した。ビザンツ軍の遠征を知ったミルダース朝は使者を派遣して貢納金の支払いを条件に含む和平を申し入れたものの、ロマノス3世は和平の受け入れを勧める将軍たちの忠告を拒否し、暑く乾燥した夏のシリアでの軍事作戦を続行した。これに対してミルダース朝はベドウィンの騎兵で構成された部隊を組織してビザンツ軍と対決するためにアレッポを出発した。
双方の軍隊はビザンツ軍が野営地を築いたアレッポの北に位置するアザーズの近郊で対峙した。ミルダース朝軍はビザンツ軍の偵察部隊を奇襲して壊滅させ、野営地に繰り返し攻撃を加えて市場を焼き払った。これらの攻撃によってビザンツ軍は食糧と水の確保が困難となり、ミルダース朝軍に対する反撃も失敗に終わった。最終的にビザンツ軍は8月10日にアンティオキアへの撤退を開始したが、アルメニア人傭兵が物資の略奪を始めたために大混乱に陥り、ミルダース朝軍は無秩序と化したビザンツ軍を攻撃して完全に打ち破った。しかし、ミルダース朝は莫大な戦利品を手に入れたにもかかわらず勝利を十分に活用することができなかった。ビザンツ軍はロマノス3世がコンスタンティノープルへ帰還した後にアラブ側の要塞を次々に占領し、状況を挽回することに成功した。そして1031年にはミルダース朝とビザンツ帝国の間で条約が結ばれ、アレッポは再びビザンツ帝国の保護下に置かれることになった。