さいたま市
埼玉県庁所在地 ウィキペディアから
埼玉県庁所在地 ウィキペディアから
さいたま市(さいたまし)は、埼玉県の県央部に位置する市。埼玉県の県庁所在地で、人口は約135.0万人と県内最多[1]。政令指定都市の一つ[2]。また財政力指数は政令市の中では3番目である。
さいたまし さいたま市 | |||||
---|---|---|---|---|---|
| |||||
国 | 日本 | ||||
地方 | 関東地方 | ||||
都道府県 | 埼玉県 | ||||
市町村コード | 11100-7 | ||||
法人番号 | 2000020111007 | ||||
面積 |
217.43km2 | ||||
総人口 |
1,350,710人 [編集] (推計人口、2024年8月1日) | ||||
人口密度 | 6,212人/km2 | ||||
隣接自治体 | 朝霞市、上尾市、川口市、川越市、志木市、戸田市、蓮田市、富士見市、蕨市、春日部市、越谷市、白岡市 | ||||
市の木 | ケヤキ | ||||
市の花 | サクラソウ | ||||
市の花木 市のマスコット 市の愛称 市の歌 |
サクラ つなが竜「ヌゥ」 のびのびシティ さいたま市 希望(ゆめ)のまち (作詞:福原くにこ、作曲:タケカワユキヒデ) | ||||
さいたま市役所 | |||||
市長 | 清水勇人 | ||||
所在地 |
〒330-9588 埼玉県さいたま市浦和区常盤六丁目4番4号 北緯35度51分41秒 東経139度38分44秒 さいたま市役所 | ||||
外部リンク | 公式ウェブサイト | ||||
特記事項 |
NTT市外局番:048(市内全域) ナンバープレート:大宮 | ||||
ウィキプロジェクト |
2001年に旧県庁所在地である浦和市(当時の人口約48万人)と、大宮市(同約45万人)、与野市(同約8万人)が合併して誕生し、2005年には岩槻市(同約10万人)を編入した。政令指定都市のうち、第二次世界大戦後に合併によって誕生した基礎自治体は当市と福岡県北九州市、静岡県静岡市のみ。
都市雇用圏における東京都市圏の中心都市の一つであり、10区の行政区を持つ。県内唯一の人口百万人都市でもあり[1]、日本の市で9番目の人口を有しており、21県の総人口を上回っている[3]。
さいたま市は関東地方の中央部に位置し、札幌市、京都市、相模原市と並び、内陸部にあり海に面していない政令指定都市である。また、政令指定都市のうち唯一、内陸県に所在している。
埼玉県内においては南部東寄りに位置するが、県内で用いられる地域区分では「中央地域」に区分されることが多い[注釈 2]。また、日本の事実上の首都である東京の都心部からは、北西に約25キロメートルの距離にあり、神奈川県横浜市や千葉市と比較しても、県庁所在都市としては東京に最も近い[注釈 3]。
その市域は広袤が東西19.6 kmおよび南北19.3 kmである[4]。面積は217.43 km2であり[5]、日本の政令指定都市としては神奈川県川崎市と大阪府堺市に次いで3番目に狭い。しかし、埼玉県内の市町村としては秩父市に次いで2番目に広く、隣接市町村数(他都道府県の自治体を含む)も12市と秩父市(15市町村)に次いで2番目に多い。
日本の政令指定都市ならびに都道府県庁所在地では初のひらがな表記の市であり、2023年時点でも唯一の例である。このため、日本の都道府県庁所在地では文字数が最多(4文字)である[注釈 4]。また、ひらがな表記の市では人口が最多の市である[注釈 5]。
政治・行政の中心は浦和区(浦和駅周辺)、経済・商業・交通の中心は大宮区(大宮駅周辺)である。東京都心からおおむね20km - 35km圏に位置するさいたま市は、東京大都市圏における衛星都市・ベッドタウンとしての性質の強い都市である。その一方で、1988年に旧浦和市・旧大宮市が業務核都市に指定され、2000年にさいたま新都心が街開きをして各中央官庁の地方支分部局が東京より移転してくるなど、業務機能の集積も進んでいる。
東京の北郊に位置するさいたま市は、広域的に見れば、より東京に近い市南部のほうが、市北部に比べて人口密度が高い傾向にある。これに加えて、東京都心部に直結するJR東日本沿線(京浜東北線、宇都宮線、高崎線、埼京線)に人口が集中する傾向があり、両方の条件が重なる南区から浦和区、中央区にかけては、20,000人/ km2以上という高い人口密度の地域が連なっている[6]。
行政・商業・業務などの都市機能の集積は、浦和駅、大宮駅、さいたま新都心駅といった主要駅周辺において顕著であり、これらが旧浦和市・旧大宮市時代からの中心市街地を形成している(旧与野市の中心は与野本町駅)。旧大宮市域は鉄道の町・商都として発展し、特に大宮駅は東北新幹線・上越新幹線・北陸新幹線の定期列車全てが停車し、首都圏屈指の繁華街・ターミナル駅となっている(「大宮地区」も参照)。一方、旧浦和市域は県政・市政といった政治・行政の中心地となっており、浦和駅前も伊勢丹浦和店や浦和パルコなどが位置する繁華街である。また旧浦和市域は埼玉大学や埼玉県立浦和高等学校などの進学校がある文教地区であり、高級住宅街としても知られる(「浦和地区」も参照)。他にも、東武野田線(東武アーバンパークライン)の岩槻駅周辺にも、旧岩槻市の中心市街地が形成されている。旧与野市を継承した中央区は、さいたま新都心エリアに都市の拠点機能を有する一方、元来の旧与野市域では住宅地が多く占めており、浦和地区や大宮地区の間を繋ぐ街並みとなっている。
現さいたま市域の大部分は江戸時代まで農地が広がっていたが、1923年の関東大震災や1940年代前半の太平洋戦争などを契機として、東京などからの大規模な人口流入が生じ、本格的に宅地化が進むようになった。このような宅地化は、まず中心市街地に近い台地上の鉄道駅付近、すなわち浦和駅から大宮駅にかけての宇都宮線・京浜東北線沿線で先行した。浦和市・大宮市・与野市の各中心部は、このような地域において互いに近接していたことから、市街地の一体化(コナベーション)は早期に進行した。国勢調査において初めて人口集中地区 (DID) が定義された1960年の時点で、この3市の人口集中地区は既に連続していた。一方、1960年時点では、蕨市、川口市、上尾市といった他市町村の人口集中地区とは連続していなかった。
その後、首都圏への大規模な人口流入と郊外化の影響はさらに強まり、現さいたま市域の都市化は急速に進んだ(「東京一極集中」も参照)。鉄道路線の沿線においては、さいたま市の人口集中地区と他市や東京の人口集中地区とが連続するようになっただけでなく、低地や鉄道駅から離れた場所にも宅地が及ぶようになり、岩槻駅周辺の市街地も拡大した。2020年時点で、10区のうち北区、大宮区、中央区、浦和区、南区の5区では、区のほぼ全域が人口集中地区に組み込まれている[7]。
しかしながら、現在もなお、鉄道駅から離れた場所には比較的大規模な農地が存在するほか、住宅地の中にも小規模な農地が点在している。また明治時代の度重なる洪水を契機とした治水対策として広大な河川敷が設けられている荒川周辺(西区・桜区)や、農地として保全された見沼田んぼ周辺(北区・大宮区・見沼区・浦和区・緑区)では、開発が厳しく制限されており、人口がほとんどいない地域も存在している。岩槻区と他区(見沼区・緑区)との境界付近を流れる綾瀬川の両岸にも農地が多く、ここで市街地が途切れている。その結果、さいたま市の人口集中地区は、岩槻区以外の9区においてはほぼ一体化しているのに対し、岩槻区の人口集中地区と他区の人口集中地区は連続していない。岩槻区の人口集中地区は、東側に位置する春日部市の人口集中地区に接している。
市内の住宅地の公示地価は、2位(大宮区)を除き、上位1位から5位の地点は浦和区に所在している。また、商業地の公示地価では、上位1位から3位が大宮区の地点、4位と5位が浦和区の地点である(2023年)[8]。
政令指定都市であるさいたま市には、10の行政区が設置されている。おおむね、市町村合併前の旧浦和市域に桜区・浦和区・南区・緑区の4区が、旧大宮市域に西区・北区・大宮区・見沼区の4区が、旧与野市域に中央区が、旧岩槻市域に岩槻区がある。ただし、わずかに旧浦和市域や旧大宮市域で中央区に属している地区[注釈 6]や、旧浦和市域で大宮区に属している地区[注釈 7]もある。
10区のうち、岩槻区を除く9区は、2003年(平成15年)4月1日の政令指定都市への移行[2] に伴って設置された。この9区の区域は、浦和・大宮・与野の旧3市の合併協議において盛り込まれた「旧浦和市域・大宮市域はそれぞれ4つの行政区に区分することが適当」「旧与野市域は(当時の)市域を基本として1つの行政区に区分することが適当」などの合意事項がさいたま市に引き継がれるかたちで設定されたものである[9]。一方で、岩槻区は、2005年に旧岩槻市がさいたま市に編入される際に、旧市域がそのまま岩槻区に移行する形で設定された。
さいたま市の10行政区には、それぞれ「区の色[10]」および「区の花[11]」が制定されている。
コード | 区名 | 設置日 | 位置 | 人口 | 面積 | 人口密度 | 区の色 | 区の花 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|
11101-5 | 西区 | 2003年4月1日 | 旧大宮市 西部 |
96,092人 | 29.12 km2 | 3,300人/ km2 | ■ あお | アジサイ |
11102-3 | 北区 | 旧大宮市 北部 |
150,853人 | 16.86 km2 | 8,947人/ km2 | ■ ふかみどり | 菜の花 | |
11103-1 | 大宮区 | 旧大宮市 南部 |
124,440人 | 12.80 km2 | 9,722人/ km2 | ■ オレンジ | さくら | |
11104-0 | 見沼区 | 旧大宮市 東部 |
166,753人 | 30.69 km2 | 5,433人/ km2 | ■ そらいろ | クマガイソウ | |
11105-8 | 中央区 | 旧与野市 | 104,183人 | 8.39 km2 | 12,418人/ km2 | ■ バラ色 | バラ | |
11106-6 | 桜区 | 旧浦和市 西部 |
99,628人 | 18.64 km2 | 5,345人/ km2 | ■ さくら色 | サクラソウ | |
11107-4 | 浦和区 | 旧浦和市 北部 |
168,588人 | 11.51 km2 | 14,647人/ km2 | ■ あか | ニチニチソウ | |
11108-2 | 南区 | 旧浦和市 南部 |
195,262人 | 13.82 km2 | 14,129人/ km2 | ■ レモン色 | ヒマワリ | |
11109-1 | 緑区 | 旧浦和市 東部 |
133,784人 | 26.44 km2 | 5,060人/ km2 | ■ みどり | サクラ | |
11110-4 | 岩槻区 | 2005年4月1日 | 旧岩槻市 | 111,127人 | 49.17 km2 | 2,260人/ km2 | ■ やまぶき色 | やまぶき |
関東平野の中央部に位置し、市内には山地・丘陵といえる場所は存在せず、比較的平坦で全域が台地および低地からなる。全域にわたって標高が低く、最も低い地点で海抜1.1 m(桜区大字下大久保)、最も高い地点でも海抜20.5 m(岩槻区大字表慈恩寺)である[注釈 8]。このため、自転車が利用しやすく、自転車保有率が主な大都市の中で1位となる 83.5%と非常に高いまちとなっている。市の西境あるいはその近くに荒川[注釈 9]、東寄りに元荒川が、それぞれ北西から南東に流れており、これらの河川に近い市の西側、南側、東側の3方を低地で囲まれる。一方、市の北西側から南東に向かって、主に関東ローム層によって形成された大宮台地が延びており、市の中央部を貫いている。この台地の中にも鴻沼川、芝川、綾瀬川などの中小河川が流れている。このような中小河川に沿って谷底平野や沖積平野などの低地が形成されているため、台地はいくつかの「支台」に区切られている。これらの低地には見沼や鴻沼などがあったが、江戸時代に干拓された。
さいたま市の気候は、ケッペンの気候区分に基づけば温暖湿潤気候 (Cfa) に属するが、本州の太平洋側に一般的にみられるように夏季に比べて冬季の降水量が少ない。
夏季は猛暑日が多く、ときには38℃を超えることもある。近年、特に2020年以降は暑い街として知られる熊谷市並みに気温が高くなることも珍しくない。
冬季の降水量の少なさと最低気温の低さは、東京都(大手町)や横浜市、千葉市といった近隣の沿岸部の諸都市と比べ、より顕著である。1月の平均最低気温は-1.1℃であり[12]、さいたま市より北にある群馬県前橋市 (-0.5℃) よりも低い。最低気温自体もかなり低く、2018年1月26日には観測史上最低の-9.8℃を記録した[13]。ただし、観測点のさいたまアメダス(桜区大字宿)は、市中心部から少し離れた田園地帯に位置するため、ヒートアイランドの影響を受ける浦和や与野、大宮などの市街地に比べてかなり低い気温が出やすい。
さいたまアメダスにおける平年値(1991年 - 2020年の観測結果による)は、年平均気温は15.2 ℃、年間平均降水量は1371.3 mmである[12]。
南方近隣の川口市と戸田市、蕨市では基本的に当市ほど顕著な気温になることはないが、北西隣の川越市や上尾市などでは一層高温となりやすい。
さいたま市(さいたま地域気象観測所)の気候 | |||||||||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
月 | 1月 | 2月 | 3月 | 4月 | 5月 | 6月 | 7月 | 8月 | 9月 | 10月 | 11月 | 12月 | 年 |
最高気温記録 °C (°F) | 18.7 (65.7) |
25.5 (77.9) |
26.9 (80.4) |
31.2 (88.2) |
34.2 (93.6) |
38.0 (100.4) |
39.3 (102.7) |
38.7 (101.7) |
37.4 (99.3) |
33.1 (91.6) |
26.1 (79) |
25.1 (77.2) |
39.3 (102.7) |
平均最高気温 °C (°F) | 9.4 (48.9) |
10.3 (50.5) |
13.7 (56.7) |
19.2 (66.6) |
23.8 (74.8) |
26.5 (79.7) |
30.5 (86.9) |
31.8 (89.2) |
27.7 (81.9) |
21.9 (71.4) |
16.5 (61.7) |
11.7 (53.1) |
20.3 (68.5) |
日平均気温 °C (°F) | 3.9 (39) |
4.9 (40.8) |
8.4 (47.1) |
13.7 (56.7) |
18.6 (65.5) |
22.0 (71.6) |
25.9 (78.6) |
27.0 (80.6) |
23.2 (73.8) |
17.5 (63.5) |
11.4 (52.5) |
6.2 (43.2) |
15.2 (59.4) |
平均最低気温 °C (°F) | −1.1 (30) |
−0.2 (31.6) |
3.3 (37.9) |
8.4 (47.1) |
13.9 (57) |
18.3 (64.9) |
22.2 (72) |
23.2 (73.8) |
19.5 (67.1) |
13.5 (56.3) |
6.8 (44.2) |
1.2 (34.2) |
10.8 (51.4) |
最低気温記録 °C (°F) | −9.8 (14.4) |
−8.8 (16.2) |
−5.0 (23) |
−2.0 (28.4) |
4.8 (40.6) |
11.5 (52.7) |
14.7 (58.5) |
16.3 (61.3) |
9.5 (49.1) |
3.6 (38.5) |
−2.4 (27.7) |
−6.7 (19.9) |
−9.8 (14.4) |
降水量 mm (inch) | 42.4 (1.669) |
39.6 (1.559) |
88.0 (3.465) |
101.9 (4.012) |
121.4 (4.78) |
144.8 (5.701) |
148.0 (5.827) |
164.0 (6.457) |
202.8 (7.984) |
196.8 (7.748) |
70.9 (2.791) |
45.2 (1.78) |
1,371.3 (53.988) |
平均降水日数 (≥1.0 mm) | 3.8 | 4.6 | 8.7 | 9.0 | 10.0 | 11.6 | 11.8 | 8.8 | 10.8 | 10.0 | 6.7 | 4.4 | 100.8 |
平均月間日照時間 | 201.4 | 186.4 | 186.6 | 187.1 | 185.3 | 128.4 | 152.5 | 181.9 | 135.6 | 135.1 | 156.6 | 181.1 | 2,018 |
出典:気象庁 (平均値:1991年-2020年、極値:1977年-現在)[14][15] |
日本において第1回国勢調査が行われた1920年(大正9年)以来、現さいたま市域の人口は、ほぼ一貫して増加してきた。1920年当時の人口が約12.3万人であったのに対して、2015年国勢調査ではその10倍以上の約126.4万人にのぼり、2020年(令和2年)国勢調査さいたま市の人口は 132万4,591人と更に増えている[16]。特に日本の高度経済成長期における人口急増が著しく、1960年国勢調査では約42.0万人であった現さいたま市域の人口は、1975年国勢調査では約81.4万人となり、この15年間で2倍近くに増加した。旧4市域の合併直前と現在の人口は、浦和市が約49万人(現・約58万人)、大宮市が約46万人(現・約52万人)、与野市が約8万人(現・約10万人)、岩槻市が約11万人(現・約11万人)である。
近年では、日本全体の状況と同様、人口の高齢化による死亡数の増加がみられる。死亡数の増加により、さいたま市の人口の自然増(出生数から死亡数を差し引いた数)は急速に減少しており、2017年にはほぼ0となった。現在のさいたま市の人口の緩やかな増加は、ほとんどが社会増(転入数から転出数を差し引いた数)によるものである[17]。人口の転入超過は、20歳代・30歳代によるものが多く、2017年には、転入超過数8,234人のうち20歳代・30歳代が5,396人を占めた[18]。
国立社会保障・人口問題研究所の『日本の地域別将来推計人口(令和5(2023)年推計)』[19] によれば、さいたま市の人口は2030年の136.3万人でピークを迎え、その後減少に転じると予測されている。ただし、さいたま市より神戸市と京都市のほうが減少ペースが速く、さいたま市の日本国内における人口順位は、2040年には両市を上回って第8位(東京都区部を除けば第7位)になると予測されている。
さいたま市と全国の年齢別人口分布(2005年) | さいたま市の年齢・男女別人口分布(2005年) | |||||||||||||||||||||||||||||||||
■紫色 ― さいたま市
■緑色 ― 日本全国 | ■青色 ― 男性 ■赤色 ― 女性 | |||||||||||||||||||||||||||||||||
さいたま市(に相当する地域)の人口の推移
| ||||||||||||||||||||||||||||||||||
総務省統計局 国勢調査より |
人口が多い区は南区(19.21万人)、浦和区(16.52万人)、見沼区(16.48万人)、人口密度が高い区は、浦和区(14,647人/ km2)、南区(14,129人/ km2)、中央区(12,418人/ km2)となっている。
2020年国勢調査によると、昼夜間人口比率は92.9であり、県庁所在地かつ政令指定都市でありながら、100を下回っている。区別では、大宮区136.9、岩槻区102.3、中央区100.4は100を上回る[注釈 10][20]。市内に常住する通勤・通学者約74万6000人の23.6%にあたる約17万6000人が東京都区部に通勤・通学しており(2020年)[20]、いわゆる埼玉都民が多い。その一方で、埼玉県内の他の市町村からさいたま市への通勤・通学者も約16万2000人にのぼり(さいたま市から埼玉県内の他の市町村への通勤・通学者は約10万4000人)[20]、昼夜間人口比率も1990年の89.8%から次第に上昇をみせるなど、さいたま市は周辺の地域から通勤・通学者を集める郊外核としての性質もあわせ持つ。
さいたま市は、人口40万人以上(2001年当時)の複数の市どうしが合併した、2020年時点において日本で唯一の例である[注釈 11]。
当初に合併した浦和・大宮・与野の旧3市の市街地は地理的に連続しているが、旧岩槻市は3市の市街地とは連続しない。旧4市のうち、旧浦和市と旧大宮市は、東西方向に細長い市域と2023年時点で50万人台の人口を有すること、中央部に中山道の宿場町(浦和宿・大宮宿)を起源とする中心市街地があり、東西に住宅地や農地が多いという土地利用構成となっていること、Jリーグに所属するプロサッカークラブがあることなどの共通点がある。
1940年(昭和15年)に大宮町・三橋村・日進村・宮原村・大砂土村が合併し、大宮市が誕生。埼玉県内では浦和市に次ぐ5番目の市制施行であった。戦後に市街地が拡大、合併前の人口は県内で浦和・川口に次ぐ3位に成長した。日本鉄道大宮工場(現・JR東日本大宮総合車両センター)や大宮操車場などの鉄道施設を誘致し「鉄道の町」として知られるようになった。現在の大宮駅は、6つの新幹線を含む合計16路線の旅客営業列車すべてが停車し、1日平均乗降者数約70万人のターミナル駅へ成長した。合併後の2007年(平成19年)10月14日には大成町に鉄道博物館が開館した。大宮駅周辺一帯には商業施設やオフィス街が集積、戦後地銀の一つである武蔵野銀行の本店をはじめ、多くの企業や金融機関などの本社・支店・営業所が存在し、先述の合併促進決議などで「経済の中心」として位置付けられている。また日本初のサッカー専用スタジアムであるNACK5スタジアム大宮(大宮公園内に所在)を本拠地とし、J2リーグが発足した1999年にJリーグに加盟した大宮アルディージャ[注釈 13]が大宮市をホームタウンとして活動し現在に至っている。他のプロスポーツでは埼玉西武ライオンズが県営大宮球場(大宮公園内に所在)を準本拠地としている。北部(現・北区)には、吉野原工業団地・陸軍工廠を前身とする大宮駐屯地および大宮盆栽村が、東西部(現・西区、見沼区)には見沼田んぼや荒川低地に田園が広がり、さいたま市を構成する旧4市の中で面積は最大であった。
一方で、近代以降の歴史を振り返ると、1889年(明治22年)の市制町村制施行当時の旧4市の中心自治体は、全て「町」であった。浦和町は、浦和宿単独による町制施行で設置されて以降、常に周辺の村々を編入(吸収)合併したものの、1934年の市制施行は周辺の村々を合併せず、単独で市制を施行している。一方、大宮町は、大宮宿と周辺の4村による新設(合体)合併によって町制を施行し、1940年の市制施行も大宮町と周辺の4村との新設合併によって大宮市を設置している。また与野町は、旧与野町と周辺の9村との新設合併によって町制を施行し、1958年の市制施行は単独で市制を施行している。岩槻町は、旧岩槻町と隣接する1村との新設合併によって町制を施行し、1954年に市制施行を前提とする岩槻町と周辺の6村との新設合併によって新しい岩槻町を設置した後、同年に単独で市制を施行している。
浦和にとって、これまで経験した自治体合併は全て浦和への編入合併であったため、さいたま市設置が初めての新設合併であった。これに対して、大宮・岩槻は2度、与野も1度新設合併を経験し、その度に「大宮」「与野」「岩槻」の名を後継の新設自治体に引き継がせてきた経緯がある。
2001年(平成13年)5月1日以前の歴史については、「浦和市」「大宮市」「与野市」「岩槻市」を、地名については「さいたま市の地名」も参照。
現さいたま市域には、旧石器時代より人が居住しており、大宮台地の関東ローム層から大古里(おぶさと、緑区)遺跡、明花向(みょうばなむかい、南区)遺跡などの遺跡から、旧石器時代の遺物が出土している[21]。
縄文時代前期には、世界的な温暖化の進行により海面上昇が進み(縄文海進)、荒川や元荒川の下流域は海面下に没した(奥東京湾。このうち、大宮台地の西側の水域は「古入間湾」とも呼ばれる[22])。このため、内陸県である埼玉県や栃木県でもこの時代の貝塚が発見されており、さいたま市内においても、当時の海岸線に近い大宮台地の縁辺部に白幡貝塚(南区)、大谷場貝塚(南区)、大戸貝塚(中央区)、中川貝塚(見沼区)などの貝塚が残されている。
寒冷化の進んだ縄文時代の後期・晩期の遺跡は少なくなるものの、岩槻区の真福寺貝塚(国指定史跡)、緑区の馬場小室山遺跡(埼玉県指定史跡)、南鴻沼遺跡(中央区)といった遺跡がある[23]。
弥生時代、古墳時代に入ると、本格的な水稲耕作が行われるようになる中で、低地をのぞむ台地の縁辺部や、低地の自然堤防に多くの集落が形成されるようになった。古墳は、植水古墳群・側ヶ谷戸古墳群(西区)、大久保古墳群・土合古墳群(桜区)など古入間川沿いの台地縁辺部や低地に多く見られる[24]。
律令体制が整備されると、現在の埼玉県や東京都を中心とする地域には、令制国として武蔵国が置かれた。現さいたま市のうち岩槻区は埼玉郡に、それ以外の9区は足立郡に含まれるようになった。『和名類聚抄』には足立郡に7つの郷が所載されており、そのうち堀津(ほっつ)、殖田(うえた)、郡家(ぐうけ)、発度(はっと)、大里(おおさと)の5郷を現さいたま市域内に比定する説があるが、堀津郷や発度郡はさいたま市外に比定する説もあり、定かではない。『延喜式神名帳』には、現さいたま市域では氷川神社、調神社、足立神社の3座が所載されている(式内社)[25]。大久保領家に足立郡の郡衙があったと推定されている。
武蔵など東国では平安時代中期に国司に抵抗する群盗の蜂起が続発して治安が悪化し、地方豪族や荘園管理者などが農民などを集めて武装化するようになり、武士へと成長した。天慶元年(938年)、足立郡司として現在の浦和や大宮を含む足立郡一帯を支配していたと考えられる武蔵武芝と、武蔵権守の興世王・武蔵介の源経基との対立が生じた。これがやがて平将門の乱の契機となったが、乱に巻き込まれる中で武蔵武芝は失脚し、以降足立氏などが足立郡司として登場した[26]。
1160年(平治元年)の平治の乱の際、源義朝に従って敗れた足立遠元はその後、足立郡に逼塞していたと考えられているが、治承4年(1180年)に挙兵して鎌倉入りした源頼朝から足立郡の郡郷領掌を安堵され、以後は有力御家人として重用された。足立遠元の屋敷は、現在の桶川市の川田谷に比定する説と、現さいたま市西区の植田谷に比定する説とがある。この他、鎌倉時代に現さいたま市域に勢力を有した武士として、髙鼻和氏、麻弥屋氏、箕勾氏、渋江氏、柏崎氏などがある[27]。
現戸田市西部からさいたま市南区西部にまたがる佐々目郷は、正応6年(1293年)から4度に分けて鎌倉の鶴岡八幡宮に寄進されたが、応永元年(1394年)以降、鶴岡八幡宮による支配に抵抗する農民の闘争が度々生じた[28]。
室町時代の関東地方では幾度にわたる戦乱が生じ、現さいたま市域もその戦乱の場となった。観応の擾乱においては、観応元年(1350年)に羽祢蔵(現:桜区)にて合戦が行われ、足利尊氏方の髙麗経澄が足利直義方の難波田九郎三郎らを破っている[29]。
また、享徳3年12月27日(1455年1月15日)に享徳の乱が勃発すると、現さいたま市一帯は古河公方方と関東管領方との対峙の場となった。康正2年(1456年)には、古河公方の足利成氏の家臣である簗田持助が足立郡に討ち入ってその大半を押領した。また岩付城は、関東管領方の(扇谷)上杉持朝の家臣である太田資清・資長(道灌)父子による築城であるとする説と、古河公方方の成田正等による築城であるとする説とがあり、築城後も太田氏が城主となった時期について複数の説があるなど、両勢力の角逐が続いた。
その後、長享の乱(1487年 - 1505年)における長期間にわたる山内上杉家と扇谷上杉家との抗争を経て、関東地方における上杉氏の力は消耗し、かわって後北条氏の勢力が次第に拡大することとなった。大永4年(1524年)には北条氏綱の勢力が既に三室郷に及んでおり、このころから現さいたま市域一帯は岩付太田氏の勢力と後北条氏の勢力の接点となったが、やがて天文15年(1546年)の川越夜戦にて北条氏康軍が勝利すると、武蔵国における後北条氏の勢力拡大はさらに本格化した。そのような状況下で、やがて永禄7年(1564年)には太田氏資がその父である太田資正を追放して北条氏康に内応し、その結果、一帯は後北条氏の支配体制下におかれることとなった[30]。
しかし、1590年(天正18年(1590年)には、豊臣秀吉による小田原征伐の過程で岩付城も陥落した。これにより後北条氏による支配は終わり、かわって豊臣秀吉の命で関東地方を与えられた徳川家康が関東入りした[31]。
徳川家康は、関東における支配を固める過程で、江戸の近隣に幕府領や旗本領、譜代大名を多く配置した。江戸時代の幕藩体制下で現さいたま市域に置かれた藩としては、岩槻城を藩庁とする岩槻藩があり、現さいたま市域のうち、岩槻区域の大部分は岩槻藩領であった。一方、他の9区の区域は幕府領や旗本領を中心に、さらに寺社領や岩槻藩領が入りまじり、さらに相給も多いという、複雑で細分化された支配体系下にあった[32]。
江戸時代に、現さいたま市域において街が形成されていたのは、浦和宿、大宮宿、与野町、岩槻町および大門宿の5か所であった。このうち、岩槻町が唯一の城下町であり、またこの岩槻町と大門宿が、将軍の日光参詣や岩槻藩の参勤交代の経路として用いられた日光御成街道の宿場町である。また、浦和宿と大宮宿は、五街道の一つとして整備された中山道の宿場町であり、与野町は甲州街道と日光御成街道を結ぶ脇往還である奥州道中岩槻道の継立場として成立した街である。しかし、大門宿の規模は極めて小さく、また浦和宿や大宮宿も中山道の宿場町の中では比較的小規模であって、与野町の方が規模の大きい街であった[33]。
江戸時代は、利根川・荒川流域において、多数の河川の付け替えや沼地の干拓が行われた時代であり、現さいたま市域もその影響を大きく受けた。まず寛永6年(1629年)には、関東郡代の伊奈忠治らが、利根川東遷事業の一環として、それまで現在の元荒川へと流れていた荒川の河道を、現在の熊谷市久下付近で締め切り、和田吉野川・市野川を経由して入間川筋に流す河川改修を実施した。この河川の付け替えにより、元荒川筋では水害が減少して新田開発が盛んに行われるようになった反面、入間川筋ではより一層洪水の危険性にさらされることとなった[34]。同じく1629年には、灌漑用水の確保を目的として、現在の東浦和駅南東側付近の芝川を塞き止める八丁堤も築堤され、その上流側に見沼溜井が形成された。
1728年(享保13年)には、享保の改革の一環として新田開発を進めていた徳川吉宗の命を受けた井沢弥惣兵衛が、八丁堤を切り開いて見沼溜井を干拓して新田(見沼田んぼ)とし、それにかわる水源として利根川から見沼代用水(現さいたま市域は見沼代用水東縁と見沼代用水西縁に分流)を開削させた。1731年(享保16年)には、もとの八丁堤があった付近に日本で最古級の閘門式運河である見沼通船堀が開削され、見沼代用水東縁・見沼代用水西縁と芝川をつなぐ内陸水運路となった。享保17年(1732年)には、見沼代用水西縁から分水するかたちで高沼用水路が開削され、見沼に続いて鴻沼が干拓された。
また、江戸時代には現在の上尾市域から、さいたま市南区域にかけての広い範囲が、紀伊徳川家や徳川将軍家の鷹場となっていた[35]。
明治維新の過程において、日本の地方行政に関わる制度が府藩県三治制(慶応4年・明治元年〈1868年〉)、版籍奉還(明治2年〈1869年〉)、廃藩置県(明治4年〈1871年〉)と移行してゆく中で、現さいたま市域では明治2年1月28日(1869年3月10日)に大宮県が設置されたが、大宮県の実質的な県庁機能は東京府日本橋馬喰町に置かれた。同年9月には県庁が浦和宿(現:浦和区)に移転し、県名も浦和県へと変更された。一方、岩槻藩は1871年8月29日(明治4年7月14日)の廃藩置県により岩槻県となった。その後、同年11月14日に、浦和県、岩槻県、忍県が合併して埼玉県が誕生[36]、県庁は旧浦和県庁に置かれた。
日本初の鉄道開業(新橋駅 - 横浜駅〈現:桜木町駅〉間)から11年後の1883年(明治16年)には、日本鉄道の上野駅 - 熊谷駅間(現:宇都宮線・高崎線)が開通し、現さいたま市域では7月28日に、初の鉄道駅である浦和駅(旧浦和操車場)が開業した[37]。
市域西部を流れる荒川は、1907年(明治40年)8月と1910年(明治43年)8月に水害を起こし、特に1910年の水害は関東大水害として知られる。荒川をはじめ埼玉県内の多数の河川が大雨により氾濫し、埼玉県や東京府の広い範囲が浸水するなど、大規模なものとなった。これらの水害を契機に、荒川では「荒川下流改修計画」「荒川上流改修計画」が策定され、一体的な治水対策や河川改修工事が行われるようになった。しかしながら、戦争を含む当時の日本の経済・社会情勢の影響を受け、工事は当初予定よりも大幅に時間を要することとなった。現さいたま市域は、荒川上流改修計画に含まれているが、これによる河川改修工事は、開始年が1918年(大正7年)、付帯工事も含めた終了年は1954年(昭和29年)のことである。これにより、さいたま市付近の荒川は、幅2km弱にわたる河川敷を有することとなった[38]。
1923年(大正12年)の関東大震災は現在のさいたま市域、なかでも浦和と大宮の発展に大きな影響を及ぼすことになる。この時期、埼玉県では主要都市中心部で「耕地整理事業」の名による区画整理が始まっていたが、中でも早期に耕地整理事業が進み、震災の時点で既に中心部付近に整備された碁盤状の街区を設けていた旧浦和町は震災被害も軽微であった(死者は3名[39])。このため、壊滅した東京や横浜から人口が流入し、特に別所沼の周辺の浦和駅西側地域には画家をはじめとした富裕層や文化人が移住した。彼らは「浦和画家」と呼ばれる文化人コミュニティーを形成し、文教都市浦和の発展に寄与した。一方、大宮ではやはり震災を契機として、大宮町・大砂土村境界部に東京市の小石川から盆栽業者が集団移転し、盆栽村組合が設立されて厳格な景観に対する取り決めを行い、盆栽村が形成された。これら関東大震災後に浦和・大宮に花開いた文化は、現在でも文化的遺産となっている。
1927年(昭和2年)に宮脇梅吉が埼玉県知事に就任。宮脇は、県庁のある浦和の単独市制もしくは浦和・大宮・与野の三町と六辻・三橋の二村の合併による一大都市圏実現を構想した。宮脇は在任わずかで他県に転出して実現しなかったが[40]、1931年(昭和6年)に宮脇が再び埼玉県知事に就任。持論を再び展開し、日進を加えて三町三村の合併による「大埼玉市構想」を強く提唱した[40]。しかし大宮町の負債総額が浦和町を大幅に上回っていたことから浦和町が合併に消極的であったといわれ[41]、合併は実現しなかった。1934年(昭和9年)、市制施行により浦和市が発足。これは都道府県庁所在地として最も遅い市制施行であった。また、浦和・大宮・与野・六辻・三橋の1市2町2村の上水道を取り扱う「埼玉県南水道組合」(後の埼玉県南水道企業団、現:さいたま市水道局)が設立され、「大埼玉市」構想の一部が実現した[40]。
1939年(昭和14年)には浦和市が、与野・六辻と戸田・蕨などの一市三町六村での合併を呼びかけ。大宮町も、浦和市・与野町との独自の合併案を提示した[40]。翌年の1940年(昭和15年)、埼玉県が仲介して大宮案での合併交渉に入り、六辻・日進を加えて一市三町五村での合併で一応の合意にこぎつけたが、各論では反対が続出して交渉は打ち切りとなった。大宮町は、交渉不調に備えて別個に合併交渉を進めていた日進・三橋・宮原・大砂土の4村と11月に新設合併を行い、大宮市が発足。1943年(昭和18年)には、埼玉県知事の大津敏男が浦和・大宮・与野との二市一町で埼玉市を設立する合併構想を打ち出すも、戦争の激化により立ち消えとなった。
太平洋戦争中は、埼玉県内を管轄する浦和連隊区司令部が置かれ、戦争末期の1945年(昭和20年)には、浦和に第36軍が置かれた。市域では4月14日に浦和と大宮が、5月26日に再び浦和が空襲を受け死傷者が生じ、また浦和への爆撃予告ビラが投下されるなどしたが、県内最大の空襲である熊谷空襲のような大規模空襲に遭うことはなかった[42]。終戦後進駐軍の占領下になると埼玉会館に埼玉軍政部が置かれた。
2001年に戦前(1927年)から数度浮上した合併構想が結実し、浦和・大宮・与野の合併によりさいたま市が発足した。2005年には岩槻を編入し現在に至っている(下記)。戦後、現市域内のインフラ整備は著しく、浦和市域を東西に走る武蔵野線(1973年)、浦和・与野・大宮の3市を南北に走る埼京線(1985年)および東北新幹線・上越新幹線(1982年、大宮駅以南の開業は1985年)などを初めとした鉄道路線が開業し、浦和・岩槻の2市を南北に通る東北自動車道(1972年、岩槻IC以南の開業は浦和ICまでは1980年、浦和TB以南は1987年)、浦和市域を東西に通る東京外環自動車道(1992年、市域内にインターチェンジの設置はされなかった)、浦和・与野・大宮の3市を南北に通る首都高速道路埼玉大宮線(1998年)などの高速道路や、新大宮バイパス・上尾道路、西大宮バイパス・東大宮バイパス・岩槻春日部バイパス、蓮田岩槻バイパス・岩槻鳩ヶ谷バイパスなどの国道バイパスを始めとした一般道路の整備が行われた結果、至近の現市域も人口流入が進んだ。特に浦和市は県庁所在地として、大宮市は商業の中心としてそれぞれ発展した。平坦な地形から住宅開発が進み、旧4市域の人口は1990年代に100万人を超え、合併後には130万人となり、京都市に次ぐ国内9位の都市となった(日本の市の人口順位参照)。現在も複数の区画整理事業(一覧)が進められており、今後も市街地の拡大が見込まれる。埼玉スタジアム2002を中心としたみそのウイングシティは、計画人口3万人以上の市内最大規模の開発事業となった。また、主要駅周辺部では再開発事業(一覧)が活発化し、高層建築物が増加した。市内で最も高さがある建物はさいたま新都心にあるランド・アクシス・タワー(略称:L.A.タワー)(168m)、最も階数が高い建物はライブタワー武蔵浦和(38階)となっている。2023年SDGs先進度調査において全国815市区のうちさいたま市が1位となった。
合併に関する経過と合併後の沿革。旧市に関する詳細な歴史は各4市の項目を参照。
本市における埼玉県議会の選挙区は、行政区ごとに区分して議員を選出している。その総数は14である。
選挙区名 | 定数 | 議員名 | 会派 | 当選回数 |
---|---|---|---|---|
南第3区 さいたま市西区 | 1 | 日下部伸三 | 自由民主党 | 4 |
南第4区 さいたま市北区 | 2 | 関根信明 | 自由民主党 | 2 |
小川寿士 | 埼玉民主フォーラム (立憲民主党) | 1 | ||
南第5区 さいたま市大宮区 | 1 | 藤井健志 | 自由民主党 | 3 |
南第6区 さいたま市見沼区 | 2 | 田村琢実 | 自由民主党 | 5 |
武田和浩 | 埼玉民主フォーラム (立憲民主党) | 1 | ||
南第7区 さいたま市中央区 | 1 | 宮崎吾一 | 自由民主党 | 2 |
南第8区 さいたま市桜区 | 1 | 荒木裕介 | 自由民主党 | 4 |
南第9区 さいたま市浦和区 | 2 | 野本怜子 | 埼玉民主フォーラム (立憲民主党) | 1 |
高木功介 | 自由民主党 | 2 | ||
南第10区 さいたま市南区 | 2 | 林薫 | 自由民主党 | 1 |
木村勇夫 | 埼玉民主フォーラム (立憲民主党) | 5 | ||
南第11区 さいたま市緑区 | 1 | 高橋政雄 | 自由民主党 | 5 |
南第12区 さいたま市岩槻区 | 1 | 小島信昭 | 自由民主党 | 7 |
「さいたま市役所」も参照。
市の一般的な広報活動は、広報課により行われている。同課内には、一般的な広報活動の企画立案や各区ごとの広報活動の取りまとめを行う「広報係」のほか、行政情報の見える化を推進することを主な業務とする「企画推進係」がある[121]。
主な広報媒体として、広報誌『市報さいたま』(毎月1回発行、全戸配布)、テレビ番組『のびのびシティさいたま市』(テレビ埼玉で放送)のほか、ウェブ媒体によるもの(公式サイトおよびメールマガジン)などがあり、このうち『市報さいたま』については視覚障害者向けにカセットテープ版や点字版も制作されている[122]。また、この他にも市議会や市政の個別テーマ・部局・地域ごとの広報が多くなされている。
市のマスコットキャラクターとして、市内の見沼(見沼田んぼ)に伝わる伝承に因んだ「つなが竜ヌゥ」が2007年9月20日に制定された[123]。このキャラクターは一定の条件(要綱・マニュアルに記載)を満たせば営利目的を含めて誰でも使用することができるほか、着ぐるみの貸し出しも行われている[124]。また、埼玉県の自治体のゆるキャラで構成されるゆる玉応援団にも加盟している。また、やなせたかしによるキャラクター「浦和うなこちゃん」がさいたま観光大使に任命されており、各種イベントにて「ヌゥ」や埼玉県のキャラクターである「コバトン」・「さいたまっち」と一緒に登場することが多い[125]。
市歌として、「さいたま市の歌『希望(ゆめ)のまち』」が制作されている。政令指定都市移行記念として2003年に制定された。公募により880点寄せられた歌詞の最優秀作品に市出身のタケカワユキヒデが作曲および補作詞をした楽曲で、タケカワと二人の娘(武川基、武川アイ)のユニット「タケカワユキヒデ & T's COMPANY」が歌う。この楽曲の冒頭とエンディングに流れるチャント風のエールは、浦和レッズと大宮アルディージャのサポーター有志によるものである。また、このエールをアレンジしたものが市内の複数のJR駅で発車メロディーとしても使用されている[126]。
※その他10区すべてに子育て支援センターを設置している。
さいたま市図書館を参照。市内に25館設置されている。ほかに埼玉県立熊谷図書館浦和分室が、埼玉県立浦和図書館閉館後埼玉県立文書館内に設置。
|
|
|
|
|
県の公社警察
|
中央省庁の関東地方を管轄する出先機関(地方支分部局)の多くが、中央区新都心(さいたま新都心)に集積している。
|
|
友好都市として、福島県南会津町、新潟県南魚沼市、群馬県みなかみ町、千葉県鴨川市と交流している(2023年時点)[127]。
上記自治体には以下の運営施設がある。
千葉県南房総市とは2008年3月31日をもって友好都市提携を解消した(友好関係は継続)。旧岩槻市が1981年11月26日、安房郡旧千倉町と友好都市提携した。
このほか、大宮駅を通る北陸新幹線の延伸先である福井県と、相互発展に向けた連携協定を2023年12月25日に締結した[128]。
2023年時点で以下の6都市[129]。
さいたま市の市内総生産額は4兆6,760億円(2020年度)[130]、製造品出荷額等は8,277億円(2020年)[131]、年間商品販売額は5兆2,218億円(2021年)[132] である。製造業の従業者数(2020年)、商業の事業所数及び従業者数(2021年)は県内1位である[131][132]。
さいたま市では、従業者の80%以上が商業・サービス業などの第三次産業に従事している。この構成割合は、政令市および東京特別区部全体とほぼ同様である。埼玉県全体や日本全国と比べると、製造業の構成割合が小さく、サービス業の構成割合が大きい。市街地にはテクノシティ浦和などのデータセンター、郊外には岩槻工業団地、吉野原工業団地などの物流拠点が所在する。
|
|
|
|
小中学校および高等学校、特別支援学校等はCategory:さいたま市の学校を参照。
国立大学法人
私立
地元の地方紙『埼玉新聞』を発行する埼玉新聞社の本社が北区吉野町にある[134]。県庁所在地であるため、各全国紙の支局を置いている。
さいたま市は、1市で1つの二次医療圏(さいたま保健医療圏)を構成する。
さいたま市は、旧浦和市域を中心としてサッカーが盛んな街でもある。現在のさいたま市役所付近に置かれた埼玉師範学校(後の埼玉大学教育学部)が1937年の全国中等学校蹴球大会(後の全国高等学校サッカー選手権大会)で初優勝し、初めて優勝旗が箱根の山を越えた(かつては近畿地方で全国大会が開かれていたため)。以来、1950年代から1970年代にかけて浦和高校・浦和西高校・浦和市立高校・浦和南高校が次々と全国制覇し、静岡県や広島県と共に「サッカー御三家」と称された[135]。
2024年時点で、さいたま市内を本拠地とするプロサッカークラブとして、男子はJ1に所属する浦和レッズ、J3に所属する大宮アルディージャ、女子はいずれもWEリーグに所属する三菱重工浦和レッズレディース、大宮アルディージャVENTUSがある。特に三菱重工業サッカー部を前身とする浦和レッズは、AFCチャンピオンズリーグで3度優勝(大会最多かつ国内唯一)した強豪クラブとなっている。浦和レッズと大宮アルディージャとの試合は「さいたまダービー」と呼ばれ、三菱重工浦和レッズレディースと大宮アルディージャVENTUSとの試合も「さいたまダービー」と呼ばれる。また、J1規格以上のサッカースタジアムが3つある都市はさいたま市だけとなっている。
2002年には、FIFAワールドカップの埼玉会場として、日本代表の初戦や準決勝戦など4試合が緑区の埼玉スタジアム2002で行われた。2020年東京オリンピックでは、男子は準決勝戦や3位決定戦など7試合、女子は準々決勝戦など4試合が当地にて行われた。
市内では野球も盛んであり、県営・市営あわせ4つの野球場が所在する。高校野球においては、選抜高校野球大会に11回、全国高校野球選手権に15回出場し、県内最多(合計26回)の甲子園大会出場回数の浦和学院高校が所在しており、2013年に浦和学院高校が、1968年に大宮工業高校が選抜高校野球大会で全国優勝を果たしている。
社会人野球においても、実業団チームでは日本通運が浦和市時代から都市対抗野球大会に48回、日本選手権に23回出場しており、1964年に埼玉県勢初の都市対抗野球大会優勝を果たし、1994年には日本選手権に優勝を果たすなど南関東エリアの強豪として知られている。また、クラブチームでは全浦和野球団が全日本クラブ野球選手権大会に1976年の第1回大会から3連覇を果たしている。戦前は大宮町に本拠に置いた「全大宮」が1932年から都市対抗野球大会に5年連続で出場し、1935年・1936年と二年連続で準決勝に進出する活躍をした。
バスケットボールについては、B3リーグ所属のさいたまブロンコスのホームタウンである他、2006年8月26日から9月3日まで、FIBAバスケットボール世界選手権のファイナルラウンド、2021年7月24日から8月8日まで、2020年東京オリンピックの男女の全ての試合が、中央区のさいたまスーパーアリーナにて行われた。
女子では現在は廃部となったが、日本リーグにも参戦していた日本通運ディアーズが浦和市に本拠を置いていた。また、さいたまスーパーアリーナが2020年東京オリンピックにおいて使用される事を受け、2017年度より天皇杯・皇后杯全日本バスケットボール選手権大会の最終ラウンドを当地にて行われている。
さいたま市は「スポーツが盛んな都市」というイメージを生かし、1994年にさいたま市スポーツ文学賞(開始時は「浦和スポーツ文学賞」。現在は終了)を創設した。スポーツを題材とする小説およびエッセイを全国から公募する文学賞で、2010年まで隔年で実施された。また、受賞者の作品集『SPORTS STORIES』を毎回刊行していた。
市指定のものは「さいたま市指定文化財一覧」も参照。
地域活性化、後世への継承を図るため2008年(平成20年)4月25日に以下3つを市の伝統産業を指定した。
2017年(平成29年)7月時点で、市内33駅合計の乗降客数は増加傾向にある[145][146]。
大宮駅は市内最大のターミナル駅であり、乗り入れ路線数16路線は東京駅に次いで全国第2位、一日当たりの平均乗降人員は約70万人と、さいたま市内だけでなく埼玉県内で最も乗降人員が多い。さらに「東日本の玄関口」として位置づけられている。日本国有鉄道(国鉄)大宮工場を母体とする東日本旅客鉄道(JR東日本)大宮総合車両センターや日本貨物鉄道大宮車両所を中心に繁栄し、かつて国鉄により公式に認定された「鉄道の町」の一つである。JRでは線籍上東北本線に属している。新幹線は、東北新幹線・山形新幹線・秋田新幹線・北海道新幹線・上越新幹線・北陸新幹線の全列車が停車する。なお、上越新幹線は線籍上の起点駅となっている。
在来線は京浜東北線、宇都宮線、高崎線、埼京線、川越線、湘南新宿ラインが通る。高崎線と川越線の起点駅となっているほか、武蔵野線直通の「むさしの号」「しもうさ号」も発着する。
これらJR各線に加えて、東武野田線(東武アーバンパークライン)・新交通システムである埼玉新都市交通伊奈線(ニューシャトル)がそれぞれ起点駅として発着している。ニューシャトルは、鉄道博物館へのアクセス路線となっている。大宮駅および隣接するさいたま新都心駅周辺一帯は、市内最大のオフィス街や繁華街が形成され、コナベーション化した発展を見せている。JTBパブリッシングや交通新聞社(都道府県代表駅の記号がない「東京時刻表」を除く)の時刻表における名目上の県市代表駅は、県庁舎の最寄り駅である浦和駅と記されている。
現さいたま市域において初めて鉄道が開通したのは、1883年(明治16年)7月28日で、現市域で当時唯一の鉄道駅として浦和駅が開業した(日本鉄道の上野駅 - 熊谷駅間)。その後、東北本線の分岐点として選出された大宮駅が1885年(明治18年)3月16日に開業し、現鉄道網の礎が築かれた。さらに、新たな鉄道路線の開通や新駅の開業により、現さいたま市域を通る路線や駅は次第に増加し、4つの事業者が運行する11の旅客鉄道路線[注釈 16]と、31の鉄道駅が存在するまでになった。このうちJRの駅は19駅で、大宮駅・浦和駅・南浦和駅・さいたま新都心駅・武蔵浦和駅・北浦和駅の6駅は、JR東日本の乗車人員ランキング上位100位内にランクインする[147]。
旅客鉄道路線の多くは南北方向に通じており、東京大都市圏における放射状の路線をなしている。特に大宮駅以南は、京浜東北線、宇都宮線・高崎線、湘南新宿ラインの3複線と、東北新幹線の建設の際に別線として建設した埼京線の4路線が担っており、多数の列車が運行されている。大宮駅以北でも、宇都宮線・高崎線が都心へのアクセス路線という重要な役割を果たしている。一方で、東京大都市圏における環状の路線をなす路線として、大宮駅から岩槻駅方面への東武野田線(東武アーバンパークライン)と指扇駅方面への川越線が、また市南部には武蔵野線が、それぞれ東西方向に通じている。なお、むさしの号・しもうさ号を除く武蔵野線と埼玉高速鉄道線(埼玉スタジアム線)以外、市内を走る全ての路線が大宮駅に発着している。
1885年(明治18年)3月16日の大宮駅設置後、大規模な車両の点検整備や建造のための自社工場を持っていなかった日本鉄道が、上野駅 - 青森駅間の全通を機に、1894年(明治27年)12月10日に大宮駅北側に設立した車両工場が、現在のJR東日本大宮総合車両センターおよびJR貨物大宮車両所である[148]。開設から120年以上経った現在も現地で操業している、長い歴史を持つ車両工場で、「鉄道の町」大宮の中心となった施設[149] であり、街の発展に大いに寄与した[注釈 18]。旧大宮市がさいたま市となった2001年以降もその異名は変わらず使われ続け、2014年からさいたま市が大宮総合車両センターとの共同主催で、「鉄道のまち大宮 鉄道ふれあいフェア」[141][注釈 19]を大宮車両所との共催で開催している。
また、上記の他さいたま市内にある車両基地は以下の通り。
市内全域で民営バスによる運行が行われている。市の南部・中央部には国際興業バス、北西部には西武バス、北東部には東武バスウエストの運行路線がそれぞれ多く、大半のバス路線は駅前を起終点としている。
大宮駅バスターミナルやさいたま新都心バスターミナルでは、多くの高速バス・長距離バス、羽田空港バス・成田空港バス(ONライナー号)が発着する。また、現在は構想段階だが、大型バスターミナル「バスタ大宮(仮称)」を整備する構想があると2021年に報道されている。
公営交通(市営バス)の運行はないが、市内に営業所を置く民営バス事業者が運行を担い市が運行費用の一部を補助するコミュニティバスが存在する。
乗車方法は後乗り前降り後払い方式で、運賃は整理券方式による区間制である。PASMO・Suica(非接触型IC乗車カード)が利用可能なバス事業者が多く、また、回数券が利用できるバス事業者もある(国際興業バスなど)。ただし、100円均一区間(浦和駅周辺など)では、現金以外で支払うと割引が適用されない。
以下に、市内で運行している事業者を示す。乗合タクシーはバスとは案内されず、運行委託先はバス会社ではなくタクシー会社であるものの、定められた経路を時刻通りに運行する公共交通機関として、ここで一括して取り上げる。
さいたま市内の通りも参照。市内に通称のある区間が存在する道路は括弧内に通称を併記。なお、市内の全区間に通称があるとは限らない。
※90号までは主要地方道、103号以降は一般県道。
※旧市で名誉市民に推挙された人物は、さいたま市名誉市民として自動的に継承されている。
※旧市で市民栄誉賞に表彰された人物は、さいたま市民栄誉賞受賞者として自動的に継承されている。
「Category:さいたま市を舞台とした作品」も参照。
Seamless Wikipedia browsing. On steroids.
Every time you click a link to Wikipedia, Wiktionary or Wikiquote in your browser's search results, it will show the modern Wikiwand interface.
Wikiwand extension is a five stars, simple, with minimum permission required to keep your browsing private, safe and transparent.