辰口信夫
日本の陸軍軍医 / ウィキペディア フリーな encyclopedia
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辰口 信夫(たつぐち のぶお、1911年8月31日 - 1943年5月31日[注釈 1])は、日本の陸軍軍医。第二次世界大戦中のアラスカ州アリューシャン列島のアッツ島の戦いで33歳で戦死した。アッツ島での戦闘中に短い日記を残しており、この日記は日本軍視点からのアッツ島の戦闘状況を伝える歴史資料として名高い。
辰口信夫 | |
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1911年8月31日 – 1943年5月31日 | |
30歳頃。近衛第一連隊への配属直後の辰口。 | |
生誕 | 大日本帝国・広島県 |
死没 | アメリカ合衆国・アッツ島 (アリューシャン列島) |
所属組織 | 大日本帝国陸軍 |
最終階級 | 曹長 |
戦闘 |
第二次世界大戦 アッツ島の戦い |
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セブンスデー・アドベンチスト教会の敬虔な信徒であった辰口は、医学の教育を受けるためアメリカ合衆国に留学してその後医師免許を取得した。伝道のため日本に戻り、東京のアドベンチストサナトリウムで医者として働きながら更なる医学の教育を受けた。しかし、1941年に彼は軍に召集され、軍医として働くことなり医学の勉強を中断させられた。1942年の暮れから1943年初頭にかけて、辰口の所属する部隊は、日本軍が42年10月から占領しているアッツ島に配備された。そして、5月12日に、アッツ島を奪還しようとするアメリカ陸軍が上陸し日米両軍による戦闘が始まり、彼も戦闘に参加した。
戦闘期間中、辰口は日記を記していた。その日記の中で、戦闘中の出来事や野戦病院での負傷者に対する治療への奮闘の様子を記録していた。死亡の経緯には諸説あるが、彼は戦いの最終日に命を落としたものと考えられている。
辰口の日記は死後、アメリカ軍によって発見され、英語に翻訳された。翻訳のコピーはアメリカ軍の内部で広まり、戦争後に本国でも出版された。クリスチャンでありアメリカで教育を受け、悲劇的な最期を遂げた辰口の日記はアメリカで注目を集めた。辰口の日記の抄訳は西洋の戦記家に広く引用されており、特に最後の家族に対して別れを告げるメッセージは有名である。
なお、ポール(Paul)という英語名を名乗っていた。また、日本国外では誤ってネブ(Nebu)[1]と呼ばれていることもある。