第2回十字軍
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第2回十字軍(だい2かいじゅうじぐん、1145年〜1149年)とは、史上2度目に行われた大規模な十字軍遠征のことである。この十字軍遠征は1144年に十字軍国家のひとつであるエデッサ伯国がムスリムの指導者ザンギーによって陥落した(英語版)ことがきっかけとなり行われたとされている。エデッサ伯国とは第1回十字軍遠征の最中の1098年、エルサレム王ボードゥアン1世によって建国された伯国であり、同時期に建てられた十字軍国家の中で最初に陥落した国であった。
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教皇エウゲニウス3世の提唱によりで第2回十字軍は開始され、フランス王ルイ7世や神聖ローマ皇帝コンラート3世といったヨーロッパの国王たちが初めて参加した十字軍遠征であった。この両王が率いる軍勢は別々に聖地へと進軍したとされ、ビザンツ帝国領を通過したのち、別々にセルジューク・トルコ系の諸王朝に撃破されたという。当時の西ヨーロッパにおける著名な歴史的資料とされるドウィユのオド(英語版)などの文献によると、当時のビザンツ皇帝マヌエル1世コムネノスはアナトリア半島を進軍する十字軍に対して秘密裏に妨害工作を行い、トルコ人らを十字軍に攻撃を仕掛けるよう仕向けていたとされる。しかしこの妨害工作は、ビザンツ帝国が十字軍遠征の障害となっていると考えていたオドのでっち上げだった可能性が高く、さらにマヌエル1世にこのような妨害工作をする政治的理由は全くなかったとされる[2]。ルイ7世とコンラート3世、その他の諸侯らの軍勢はエルサレムに着陣し、1148年にはエルサレム王国と友好関係を築きつつあったダマスカスに対して攻撃を行なった。この攻撃は失敗に終わり、第二回十字軍は十字軍側の失敗、ムスリム側の勝利に終わった。無分別に行われたダマスカスへの攻撃は、1187年にエルサレムがアイユーブ朝に征服される(英語版)遠因となった。そしてエルサレムの陥落が第3回十字軍を引き起こすこととなる。
聖地において第2回十字軍は失敗に終わっていたものの、その他の地域では十字軍は勝利を手にしていた。1147年には、聖地を目指してイングランドから海路で進軍していたイングランド・フラマン・フリース・ノルマン・スコットランド・ドイツの諸侯率いる十字軍約13,000人は途中、リスボンに立ち寄り、リスボンを包囲していた約7,000のポルトガル軍を支援し、ムーア人をリスボンから追い出すことに成功している。