太子信仰
聖徳太子に対する信仰 / ウィキペディア フリーな encyclopedia
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太子信仰(たいししんこう)とは、聖徳太子を崇拝する様々な信仰のこと[1]。聖徳太子(以下、太子)は日本に仏教を広めた聖人とされ、その信仰は法隆寺と四天王寺を中心に日本仏教と共に発展してきたが特定の宗派を形成することなく[注釈 1]、また地方の風習と融合した土着化や神社での祭祀、太子講など多様な信仰が生まれて現在まで受け継がれてきた。太子信仰とは、こうした信仰を総括して研究するための概念であり、聖徳太子信仰とも呼ばれる[4][5]。
太子について記された伝記(以下、太子伝)は膨大な数がありながら、その中でも太子の事績と認定できる確実な史料は極めて少ない[6][7]。そうした太子伝では、その時々の要求に答えるように姿を変えて描かれてきたからである[8]。 仏教界からは日本仏教の開祖とされ、近代には日本文化の基礎を作った偉人とされ、太平洋戦争後には民主主義の精神性の象徴とされ、現在では懐疑派の研究者から虚構説が出されるまでに至っている[9][10]。こうした背景から太子研究は極めて困難であり、その研究史においても太子の実像は揺れ動いてきた[10][4]。そうした中で小倉豊文は、実像としての人間聖徳太子と、虚構としての太子信仰を分けて研究する必要性を説いた[10]。言い換えれば太子伝承の記憶と創造の仕組みを解明することが、太子の実像に迫る有力な手段と捉えられるようになっている[8]。
そうした研究のなかにあって、後世に創作された太子の姿は単なる虚構と切り捨てられるのではなく、太子信仰として日本の社会や思想の移り変わりを反映する時代の鏡と評価されるようになった[8]。日本の古代から現代に至るまで、1400年に渡って太子は人々に受け入れられ時に批判をされてきたが、そうした人物は他に居ないと言ってよい[11]。また、太子信仰は皇族から被差別階層に至るまで広まったことも特徴の一つであり[5]、各時代で様々な人々が太子をどのように捉え、何を投影し、何を信仰し、どう批判されたのかを解明することで、日本の宗教・精神・思想・美術・文化の変遷を明らかにする事が太子信仰の研究目的でもある[8][4]。