利用者:安息香酸/砂場7
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安息香酸/砂場7 | |
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13世紀に描エドワード長兄王の肖像画 | |
在位期間 899年10月26日 - 924年7月17日 | |
戴冠 |
900年7月8日 キングストン・アポン・テムズ |
先代 | アルフレッド大王 |
次代 | アゼルスタン <br/>またはエルフウェルドとも。(論争中) |
出生 | 874年ごろ |
死亡 |
924年7月17日 ファーンドン(英語版), マーシア |
埋葬 | New Minster, Winchester, later translated to Hyde Abbey |
王室 | ウェセックス家 |
父親 | アルフレッド大王 |
母親 | アルフスウィス(英語版) |
子女 | |
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エドワード長兄王(英語:Edward the Elder ,874年ごろ-924年7月)とは、9世紀から10世紀にかけてのアングロ・サクソン人の王(在位899年-924年)である。エドワードはアルフレッド大王とその王妃アルフスウィス(英語版)の長男であった。しかし父アルフレッドの兄であり2代前のウェセックス王であったエゼルレッド1世の息子エゼルワルド・アシリング(英語版)と王位継承の際に王位を巡り対立し、数年の内戦を経て王位に就任した。
871年、父親のアルフレッドはウェセックス王に就任した。当時のウェセックス王国はデーン人ヴァイキングの攻勢の前に風前の灯火であったが、878年のエディントンの戦い(英語版)でアルフレッド王率いるウェセックス軍はヴァイキングを撃破し、デーン人らによる征服を免れた。しかし彼らはそれ以前に征服していたノーサンブリア王国・イースト・アングリア王国の遺領とマーシア王国領東部を依然として領有し続け、アングロサクソン人の統治下にとどまったのはウェセックス王国とマーシア西部のみであった。そして880年代初期ごろ、西マーシア太守エゼルレッド(英語版)がアルフレッド王の権威を認め、王の娘エセルフリーダと結婚した。そして886年頃、アルフレッド王はデーン人の統治下にない全てのアングロサクソン人を統べる王として、アングロ・サクソン人の王という新たな称号を創設した。そしてアルフレッド王の死後、899年にエドワード長兄王はこの新称号を継承した。
910年、マーシア・ウェセックス連合軍は北部から王国への侵攻を目論んだノーサンブリア軍をテッテンホールの戦い(英語版)で撃破し、北部からのヴァイキングの脅威をなくすことに成功した。それから10年間の間に、エドワード王は、彼の姉でマーシア太守の下に嫁いだエセルフリーダ(911年に太守が亡くなったのち、マーシア太守の座を自ら継承していた。)の協力の下で、イングランド南部に残るヴァイキング領を征服した。しかしその後、エドワード王はエセルフリーダをウェセックスに召喚しマーシアの直接統治を開始した。そして910年代末にはエドワード王はウェセックス・マーシア・イーストアングリアを支配下に組み込み、唯一ノーサンブリアだけがヴァイキングの手に残った。924年にはマーシア人・ウェールズ人がチェスターで反乱を起こし、エドワード王はそれを鎮圧し、その後すぐにファーンドン(英語版)で亡くなった。王位は彼の長男であるアゼルスタンが継承し、次男三男がその後を継いだ。
エドワード王は後世の年代記編者達から高く評価されており、特にマームズベリのウィリアムはエドワード王の事を「彼は学識的な教養においては父王と比べて劣っていたが、父の治世とは比較にならないほど王国に繁栄をもたらした」と評している。エドワード王の治世は1990年代に至るまで特段評価されず、現代の歴史家ニコラス・ジョン・ハイマン(英語版)はエドワード王を恐らく最も無視された王とも称している。エドワード王の治世を記す当時の一次資料がほとんど残っていないことが理由の一つである。しかし、彼の評価は20世紀末ごろに好転し、現在ではイングランド南部のデーン人勢力を駆逐し南部を中心とするイングランド人の王国の基礎を築き上げた偉大な王として再評価されている。