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分断国家(ぶんだんこっか)は、本来ならひとつの国家であるべきであるが、人為的に分裂させられた状態の国家のことである。特定地域が分割されて2つ以上の国家が存在する状態を幅広く指すことができるが、特に第二次世界大戦後の冷戦時代に西側陣営と東側陣営とで国内が分裂した国家を指して使われることもある[1]。分裂国家(ぶんれつこっか)などの呼び方もある。
分断国家の特徴として、以下の点が挙げられる[要出典]。
分断国家の各政府は、自己が認識する正統性を根拠に、国家の統一を目指して政府同士の戦争・交渉または諸外国との外交を行う。並立する政府の外交上の扱いは国・時代によって異なっており、並立する政府に対する他国の政府承認を一切否定する方針(ハルシュタイン原則、および「一つの中国」論に基づく二重承認否定)もあれば、逆に否定しない方針(南北等距離外交)もある。
統一が実現するまでの間、各政府はそれぞれが実効支配する地域で独自の内政を実施し、かつそれぞれの地域住民は政府によって相互交流が制限されるため、同じ国家内の地域同士であっても経済格差や住民の価値観の変化などが生じる。また、別個に政府承認を受けた各政府が独自に外交政策を展開することで、国際社会では分断国家の存在を前提とした国際関係が構築される。分断国家で分断状態が長期化すると、これらの事象が複合的に発展し、「国家が分断されている異常な状態が常態である」という「分断の恒久化」が発生することが多い。
分断国家は、「一国家一政府」を原則とする国民国家(近代国家)の概念が普遍的になった近代以降に現れた概念である。したがって、ローマ帝国の東西分裂や、領邦国家が乱立していたドイツ統一以前のドイツ、および三国時代や魏晋南北朝時代の中国など、近代国家でない国の分裂は分断国家に該当しない。また、スールー王国のように、前近代国家の統治する地域が列強諸国によって分割・植民地化され、後に分割された地域が植民地単位で別個に独立した場合も、分断国家に該当しない。なお、イエメンもその例に当てはまるが、冷戦終結後に統一されたことから分断国家とされている。一方、近代国家で2つ以上の国家が並立していても分断国家と見なされない場合がある。
現存する冷戦に起因する分断国家は、中国と朝鮮の2か国である。これらの国の各政府はいずれも、「国土全域を支配する正統性を有する」と主張し、対立相手の正統性を認めていない。また、過去の例としてはイエメン、ドイツ、ベトナムがある。
いずれの事例も、冷戦の最中に独立・主権を回復する過程で、「政治・経済体制を自由・資本主義体制と社会主義体制のどちらにすべきか」というイデオロギーの選択が対立の原因となって分裂している。
この節の正確性に疑問が呈されています。 |
上記の分断国家に対し、
のいずれかに該当する場合は分断国家とみなされない。また特殊な例としては、従前の民族自決権(自決権)による統一の正統性が戦争によって全面的に否定され再分裂した大ドイツがある。
下記の一覧では、該当事例を国名の五十音順に掲載する。
20世紀初頭、「蒙古王公」たち(モンゴル草原に分封された諸侯)は、清朝末期に展開された「清末新政」(1910年-1911年)により清朝支配への反発を深め、密かに独立を画策しはじめ、ロシア帝国からは経済支援と武器弾薬の供給を取りつけることに成功した。
1911年、中国の共和主義者が引き起こした共和革命(辛亥革命に乗じ、化身ラマのジェプツンタンパ・ホトクト8世(ボグド・ゲゲン〈「聖人さま」の意〉)を「ボグド・ハーン」(「聖なる皇帝」の意)として君主に推戴して独立を宣言、北部(現在、国連加盟の独立国モンゴル国となる領域)に実効支配を確立した上で南部49旗(現在、中国領の内蒙古自治区となっている領域)にも浸透した。しかし、モンゴルに対する影響圏を「漠北」(ばくほく、ゴビ砂漠の北側)に限定することを日本・中国などと取り決めていた(日露協約〈1907年〉、中露覚書〈1913年〉など)ロシアは、ボグド・ハーン政権に対して「漠北」への撤退を要求、ロシアからの経済・軍事支援がなければ立ちゆかないモンゴルはやむなくこれを飲み、1914年から15年にかけて開催されたキャフタ会議により、モンゴルの北部は「中国の宗主権の下」でボグド・ハーン政府が「自治」を行う地域、「漠南」(ばくなん)は「純然たる中国領」と定められた。
その後、内蒙古は日本の影響下で成立した満州国により東西に分裂、残った内蒙古西部には内蒙古自治運動により蒙古軍政府(後の蒙古自治邦政府)が誕生する。1945年のソ連軍の侵攻で蒙古自治邦政府と満州国は消滅。旧蒙古自治邦領域では内モンゴル独立宣言をした内モンゴル人民共和国、旧満州国領興安総省では東モンゴル自治政府やホロンバイル自治省政府などが成立し、南北モンゴル統一運動を掲げ、1947年にはそれらの勢力を統合した内モンゴル自治政府が成立。その後、国共内戦によって成立した中華人民共和国では内モンゴル自治区が設置されるも南北統一は果たせず、逆に中国共産党政権による内モンゴル人民革命党粛清事件により統一運動は徹底的に弾圧された。なお、中華民国政府は2012年まで外蒙古の独立を認めず、中華人民共和国やロシア連邦トゥバ共和国の領域とともに自国領土だと主張していた。
1859年にオスマン帝国領内のワラキア公国とモルダヴィア公国が合併してルーマニア公国(後にルーマニア王国)が誕生、1877年5月9日にオスマン帝国宗主権下からの独立を宣言し、1878年のベルリン条約で完全独立を達成するもトランシルヴァニア公国やベッサラビア、ブコビナは、オスマン帝国の影響下にあった時代にロシア帝国やオーストリア帝国によって割譲されたため、その版図には含まれなかった。第一次世界大戦後の1918年にハンガリーとロシアからトランシルバニアとブコビナ、ベッサラビアを併合し、大ルーマニアの統一を達成。ベッサラビアのうちソ連統治下に留まったごく一部の領域がモルダヴィア自治ソビエト社会主義共和国を形成した。
1940年にルーマニアはソ連にベッサラビアを割譲させられ、第二次世界大戦中には再占領するものの敗戦により領有権を放棄しソ連へ割譲、モルダヴィア・ソビエト社会主義共和国(モルドバSSR)としてソ連を構成する共和国のひとつとなった。1991年のソビエト連邦の崩壊により、モルドバSSRはソ連から離脱して現在のモルドバ共和国が成立。前後してルーマニア・モルドバの両国ではルーマニア・モルドバ統一運動が興るが、現在に至るまで統一はなされていない。
1885年にベルリン会議において、元々あったコンゴ王国がコンゴ自由国(後にベルギー領コンゴ)とフランス領コンゴ(後のフランス領赤道アフリカ)に分割され植民地化。1960年、ベルギー領コンゴとフランス領赤道アフリカはそれぞれコンゴ共和国(仏: République du Congo)というまったく同名の国として独立。2つの国にはそれぞれの首都の名前が付され、元ベルギー領コンゴは「コンゴ・レオポルドヴィル」、元フランス領赤道アフリカは「コンゴ・ブラザヴィル」として区別された。1964年にコンゴ・レオポルドヴィルは、正式国名を「コンゴ民主共和国」に変更。当初、コンゴ・レオポルドヴィルは東側寄り、コンゴ・ブラザヴィルは西側寄りであったが、1970年にコンゴ・ブラザヴィルにおいて共産主義国家のコンゴ人民共和国が、1971年にコンゴ・レオポルドヴィルにおいて親米反共主義のザイール共和国がそれぞれ成立し、対立が生じた。冷戦終結後の1991年にコンゴ人民共和国がコンゴ共和国へ、1997年にザイール共和国がコンゴ民主共和国へと、かつての国名にそれぞれ変更した。現在、これといった再統一運動はない。
イエメンと同じく、前近代国家の統治する地域が列強諸国によって分割・植民地化され、後に分割された地域が植民地単位で別個に独立し、独立後は西側寄りのザイールと東側寄りのコンゴ人民共和国とで対立関係にあったが、統一運動は活発ではなかったため、イエメンとは異なり分断国家とみなされていない。
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