レパントの海戦
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レパントの海戦(レパントのかいせん)は、1571年10月7日に起こった、ギリシャのコリント湾口のレパント沖での、オスマン帝国海軍と、教皇領・スペイン帝国・ヴェネツィア共和国の連合海軍による海戦である[3]。
概要 レパントの海戦, 交戦勢力 ...
レパントの海戦 | |
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戦争:オスマン・ハプスブルク戦争 | |
年月日:1571年10月7日 | |
場所:イオニア海、パトラ湾 | |
結果:神聖同盟の大勝 | |
交戦勢力 | |
神聖同盟(英語版) | オスマン帝国 |
指導者・指揮官 | |
ドン・フアン・デ・アウストリア アルバロ・デ・バサン アレッサンドロ・ファルネーゼ ジャナンドレア・ドーリア セバスティアーノ・ヴェニエル アゴスティーノ・バルバリーゴ マーカントニオ・コロンナ |
メジンザード・アリ・パシャ(トルコ語版) † マホメッド・シャルーク † クルチ・アリ・パシャ |
戦力 | |
ガレー209隻 ガレアス6隻 小ガレオン船26隻 補助船65隻 |
ガレー213-219隻 ガレアス6-12隻 小ガレオン船60隻 輸送船24隻 兵員26,000 砲750門[2] |
損害 | |
戦死者7650? 負傷者7785 ガレー12隻喪失 |
戦死者5000 捕虜25000、漕手のキリスト教徒12000 ガレー25隻沈没、ガレー170隻小型ガレオン40隻投降 |
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オスマン帝国の東地中海への進出に対してそれまで消極的な対応をしていたスペイン王国は、旧グラナダ王国での隠れイスラム教徒が生活条件の悪化により反乱を起こし(アルプハーラスの反乱)、オスマン帝国への支援を求めた事で自国の安全保障上看過できなくなった。そこで支配下のジェノヴァやイタリアの諸都市、マルタ騎士団等から最大限の戦力を集めた。また、教皇領の海軍にはスイス傭兵やフランスからの志願騎士も参加した。
一方、元々海運国ではなかったオスマン側は北アフリカの海賊の頭目をアレクサンドリアやアルジェ、チュニスといった土地のパシャ(総督)に任命し、海戦の度に召集していた。
この海戦は西ヨーロッパ史において大海戦でのオスマン軍に対する勝利であり、オスマン帝国の地中海での前進を防ぐのに役立った。また、オスマン側の敗戦がギリシャとアルバニアでの蜂起を誘発し、バルカン半島での支配も一時揺るがすこととなった。[2]