チェーザレ・ボルジア
ウィキペディア フリーな encyclopedia
ヴァレンティーノ公チェーザレ・ボルジア(イタリア語: Cesare Borgia, duca di Valentino 発音: [ˈtʃɛzare ˈbɔrdʒa]、スペイン語: César Borgia(セサル・ボルヒア)またはCésar Borja(セサル・ボルハ)、バレンシア語:Cèsar Borja、1475年9月13日(14日説有) - 1507年3月12日[1])は、アラゴン(スペイン)系[2]イタリア人[3][4]の枢機卿、傭兵隊長(コンドッティエーレ)[5][6]であり、その権力闘争はニッコロ・マキャヴェッリの『君主論』に大きなインスピレーションを与えた。教皇アレクサンデル6世の庶子であり、スペイン・アラゴン系のボルジア家の一員であった[7]。
概要 チェーザレ・ボルジア Cesare Borgia, 他の役職 ...
チェーザレ・ボルジア Cesare Borgia | |
---|---|
バレンシア枢機卿 | |
チェーザレ・ボルジアの肖像(アルトベロ・メローネ(英語版)画、アッカデミア・カッラーラ蔵) | |
他の役職 |
パンプローナ司教 バレンシア大司教 ヴァレンティーノ公爵 |
聖職 | |
枢機卿任命 | 1493年9月20日 |
個人情報 | |
出生 |
(1475-09-13) 1475年9月13日 教皇領 ローマ |
死去 |
(1507-03-12) 1507年3月12日(31歳没) ナバラ王国 ビアナ(スペイン語版) |
墓所 |
スペイン ビアナ(スペイン語版) サンタ・マリア教会(スペイン語版) |
教派・教会名 | キリスト教カトリック教会 |
両親 |
父:アレクサンデル6世 母:ヴァノッツァ・カタネイ |
配偶者 | シャルロット・ダルブレ |
子供 | ルイーザ |
テンプレートを表示 |
閉じる
当初は教会に入り、父の教皇選出により枢機卿の地位を得たが、兄の死後である1498年には枢機卿を初めて辞任した人物となった。1500年頃からフランス国王ルイ12世のコンドッティエーレを務め、イタリア戦争ではミラノとナポリを占領した。同時に、中央イタリアに自らの国家を切り開いたが、父の死後、長く権力を維持することはできなかった。マキャヴェッリによれば、それは彼に先見の明がなかったからではなく、新たな教皇の選択を誤ったためであった[8]。