チェスター・B・ボウルス
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チェスター・ブリス・ボウルス(Chester Bliss Bowles, 1901年4月5日 – 1986年5月25日)は、アメリカ合衆国の政治家、外交官である。第3代および第8代アメリカ合衆国駐インド大使、第22代アメリカ合衆国国務次官、第78代コネティカット州知事を歴任した。大手広告代理店『Benton & Bowles』の共同設立者でもある。ボウルスは、冷戦時代のアメリカの外交政策に影響を及ぼした人物である。彼は、第三世界に対する経済支援こそが、共産主義に立ち向かうにあたっての最良の手段であり、争いの無い世界秩序をもたらすためにも重要である、と主張した。第二次世界大戦中は価格管理局(The Office of Price Administration)の局長を務め、消費者物価の設定を管理する任務に就いた。戦後は経済安定局(The Office of Economic Stabilization)の局長を務めたが、物価の暴騰の制御に四苦八苦していた。コネティカット州知事選挙に立候補し、1949年から1951年までこれを務めた。彼は教育や住宅計画において、自由主義的な政策を推進したが、再選は叶わなかった。1951年から1953年まで、および1963年から1969年にかけて、アメリカ合衆国駐インド大使を務め、インドの首相で非同盟運動の新興指導者、ジャワハルラール・ネルーと良好な関係を築いた。ボウルスはインド経済の急速な工業化を推進し、そのための経済支援をワシントンに繰り返し求めたが、アメリカ連邦政府はインドの中立性に対して怒りを見せ、経済支援については、識字率の向上と保健事業のみに限定した。1953年から1960年にかけてのドワイト・D・アイゼンハワー政権の時代、ボウルスは民主党員としてアドレイ・スティーブンソン(Adlai Stevenson)とジョン・F・ケネディ(John F. Kennedy)の外交政策顧問を務めた。その後、1961年にアメリカ合衆国国務次官に就任し、アメリカ大使館には自由主義者の知識人や活動家を人材として配置した。しかし、ボウルスの自由主義的な政策はケネディの目には過激なものに映り、ボウルスは1961年に第三世界の巡回大使に任命されたが、これは名目的な仕事であり、降格であった。ケネディはボウルスを再び駐インド大使に任命し、ボウルスは農業生産性の向上と現地における飢饉の根絶に尽力した[1]。自身が駐インド大使を務めていた1967年3月、ソ連の政治家、ヨシフ・スターリン(Иосиф Сталин)の娘、スヴェトラーナ・アリルーイェヴァ(Светлана Аллилуева)がニューデリーのアメリカ大使館を訪れた際、彼女の政治亡命を手伝ったことでも知られている。
チェスター・B・ボウルス Chester B. Bowles | |
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1959年1月1日 | |
第3代及び第8代アメリカ合衆国駐インド大使 | |
任期 1963年7月19日 – 1969年4月21日 | |
大統領 | ジョン・F・ケネディ リンドン・B・ジョンソン リチャード・ニクソン |
前任者 | ジョン・ケネス・ガルブレイス |
後任者 | ケネス・バーナード・キーティング |
任期 1951年10月10日 – 1953年3月21日 | |
大統領 | ハリー・S・トルーマン ドワイト・D・アイゼンハワー |
前任者 | ロイ・ウェスリー・ヘンダーソン |
後任者 | ジョージ・ヴェナブル・アレン |
第22代アメリカ合衆国国務次官 | |
任期 1961年1月25日 – 1961年12月3日 | |
大統領 | ジョン・F・ケネディ |
前任者 | クラレンス・ダグラス・ディロン |
後任者 | ジョージ・ワイルドマン・ボール |
アメリカ合衆国下院議員 コネティカット州第二地区選出 | |
任期 1959年1月3日 – 1961年1月3日 | |
前任者 | ホレス・スィーリー・ブラウン・ジュニア |
後任者 | ホレス・スィーリー・ブラウン・ジュニア |
第78代コネティカット州知事 | |
任期 1949年1月5日 – 1951年1月3日 | |
副知事 | ウィリアム・トマス・キャロル |
前任者 | ジェイムス・カーフリン・シャノン |
後任者 | ジョン・デイヴィス・ラージ |
価格管理局局長 | |
任期 1943年 – 1946年 | |
大統領 | フランクリン・デラノ・ルーズヴェルト ハリー・S・トルーマン |
前任者 | プレンティス・マーシュ・ブラウン |
個人情報 | |
生誕 | Chester Bliss Bowles (1901-04-05) 1901年4月5日 マサチューセッツ州スプリングフィールド |
死没 | 1986年5月25日(1986-05-25)(85歳没) コネティカット州エセックス |
死因 | パーキンソン病 |
政党 | 民主党 |
出身校 | イェール大学(理学士号) |